試掘現場。間違ってもご遺骨を撮ってはならない。

 

 

今回から「丸」別冊「玉砕の島々」に移り、林勇氏著「旗艦『大鳳』の最期」という回想記を読む。筆者は「当時大鳳乗組・海軍整備兵長」。「丸」別冊の「太平洋戦争証言シリーズ」は、著者のほとんどが士官で、まれに下士官がいるが彼は兵だ。陸海の違いはあれど、うちの伯父と同じ階級となると、それだけで親近感が湧く。

 

著者は福井静夫中尉と同時期に呉の造船所にいたはずだ。また、後に題材とするが、先述した奥宮正武航空参謀が「隼鷹」から見た、「大鳳」艦上の火災事故についても詳しく書いている。まずは長文の著者紹介のうち、前半部分を転記する。

 

 

相模野海軍航空隊で普通科飛行機整備術訓練生として教育を受けた筆者は、昭和十九年一月中旬、当時、神戸の川崎乗船所で艤装中の空母「大鳳」の艤装員を命ぜられ、同艦に着任する。所属は十分隊で、これは母艦の発着兵器を受け持ち、筆者の部署はその滑走制止装置であった。

 

後に発着兵器の一件が出て来る。ところで「トップガン」の新旧両作品は、「イントロの整備兵が恰好良し」というのが我が家の評価である。大音響と振動の中でのボディランゲージ。映画だから上手くゆくのだが、現実はいつもそうとは限らない。

 

 

その件の前に「大鳳」の出航についての記録を見ると、公試運転を全て終えた同艦の竣工、引渡式が行われたのは昭和十九年(1944年)3月7日。初代艦長は菊池朝三大佐。「大鳳」は3月25日、著者を乗せて呉を出航し岩国沖に向かった。

 

岩国沖では「飛行機を搭載したり、南方方面へ出撃する陸戦隊の兵士や転勤者を受け入れたり」と慌ただしかった。27日未明に泊地を離れ、朝食後、早くも「総員配置に就け」の号令がかかり、著者らは飛行甲板の「整備員控所」(ポケット)に分散し、海面の見張に着いた。

 

 

試掘現場遠景

 

 

豊後水道に差しかかるころ、大分航空隊の水上偵察機二機が上空の援護に付いた。もう戦場なのだ。四国の山、九州の山を見ながら、故郷の山河を思い出し、「俺のお袋を頼んだぞ」と祈った。部下もみな黙って遠い山並みを見ている。

 

この日、本土近海は荒天で波高し。護衛の駆逐艦も翻弄されて時にスクリューが見えるほど上下していたが、わが「大鳳」は「その小山のごとき大きな船体で大波をはらいはらりとはらいのけ」て進む。

 

 

途中で大分の水上偵察機は、航続距離の関係で引き返し、二航戦の艦載機が交代で護衛についた。このため著者も「海上見張り」だけでは済まなくなり、本職の整備が忙しくなった。無事、中継地に着き、一行は「シンガポールの寧日」を楽しんだ。

 

セレター軍港で、積んできた人員や航空機を下ろす。港の売店に本土の女性がいて、「大鳳」艦内でも買える品物を、みんなこの売店で買った。著者もジョホールバルで食事をし、軍票を使った。乗組員は大船に乗ったつもりになっている。無理もない。しかし彼の分隊員のうち、69%の兵が戦死することになる。

 

 

だんだんと決戦場に近づいてゆく。「大鳳」は4月5日、赤道直下のリンガ泊地に入った。ここで連合艦隊の編成替えがあり、「大鳳」は新設の第一機動艦隊および第三艦隊の旗艦となった。著者の誇りが、この手記のタイトルに見える。

 

小沢治三郎中将が乗艦し、「大鳳」に将旗が掲げられた。艦内に「世界一の艦、世界一の乗員たれ」と書かれたステッカーが貼りだされた。母艦に飛行隊も乗り込んできてリンガ泊地では猛訓練が始まった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

ママラ川の清流  (2024年3月12日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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