3月のソロモン諸島ガダルカナル島出張の写真をアップして参ります。これは宿泊先キタノ・メンダナ・ホテル前の海辺。

 

 

私の実家が静岡市内で引っ越したのは、小学校の4年生が終わり5年生になる春休みの1970年4月2日だった。本日で実家は築54年になる。新築の転居先は。両親によると「じいさんが建ててくれた」。祖父の交通事故死で保険金が出たためだ。

 

もっとも生命保険だけではとても足りず、両親は住宅ローンを借りている。子供の頃のことなので正確な数字は覚えていないが、経済成長の真っ只中ということもあり、10%を超える長期金利だった。月々の定額返済だから、最初のうちは殆ど金利だけ返済していたはずだ。

 

 

本題に戻る。前回の続きで、前掲福井書は「大鳳」以外の空母の損害および教訓も解説した後、次の項に移る。その冒頭、「いちばんの痛手であったのは、せっかく防弾防御として飛行甲板防御を装甲した大鳳が、竣工わずか三ヶ月の初陣で、なんとも皮肉なことに、魚雷一発によって沈んだことにある」と続く。

 

もっとも「一発」ではあったが、一撃で即座に沈んだのでもない。古来、「蟻の一穴、天下の破れ」という。「大鳳」は前回の教訓一および教訓六で見たように、昇降機の故障、軽質油の漏洩、引火と傷口が広がっていった。該当部分を引用する。

 

 

本艦は魚雷防御もまたわが空母中、最も優れていたはずであった。事実、魚雷一本では、たいした影響もなく、浸水もわずかであり、高速運転も可能であったが、雷撃の衝撃でエレベーターが故障し、飛行機の発艦のために全力をつくして前部エレベーター(中途で停止)の開口を艦内工作でふさいだところ、軽質油タンクからの軽質油ガスが格納庫に充満し、これが発火して一瞬にして本艦の格納庫以上が大破した。

 

しかしなお、水防部分はかなり水密性をたもっていたが、全艦火災となり数時間後に沈んだ。(引用者中略)

 

三艦とも雷撃は米国潜水艦による。かねて多年、わが海軍がひたすらに錬成した漸減作戦、そのために世界無比の潜水艦部隊(海大型、甲、乙、丙型など)を完成保有したその作戦そのものが、米側によってわが方に実施されたのである。

 

 

なお、途中の中略したところでは、「翔鶴」と「飛鷹」の沈没原因が記されているため「三艦とも」と続いている。さて、敵雷撃後に行われた判断により、「飛行機の発艦のために全力をつくして前部エレベーター(中途で停止)の開口を艦内工作でふさいだ」ため、ガスが充満したという経緯になっている。

 

飛行機の発艦のための修復を急いだのは、被弾がアウトレンジ作戦に沿って攻撃隊が発進し始めた直後だったからだ。これまで参照してきた戦史叢書や「丸」別冊の複数の手記においては、若干の時刻のずれがあるが、概ねの経過は以下のとおり。

 

 

戦史叢書「マリアナ沖海戦」の時刻を例にとると、旗艦「大鳳」の第一次攻撃を担った垂井隊が発艦を始めたのは、昭和十九年(1944年)6月19日の〇七四五。上空で集結し発進したのが〇八〇五。

 

この「発進直後」に、彗星一機が敵潜の雷跡を認め、体当たりの自爆を図った。「大鳳」に魚雷一本が命中したのが5分後の〇八一〇。そのまま作戦を継続し、一四三二、大爆発。一六二八、沈没。

 

 

前部のエレベーターが故障した時刻は記載がないが、上記のように「雷撃の衝撃」なら命中したときだろう。作戦継続のため前部エレベーター室を閉鎖する作業を終えたのが一四〇〇ごろとある。その約20分後に大爆発が起きた。そして「引火の原因については判然としていない」。

 

午前10時半ごろに第二次攻撃隊が発進しているので、そのときまでに昇降機の中で止まったエレベーターの上部をふさぐ応急の作業は終わっていたのだろう。上記の14時ごろの閉鎖というのは、最終の仕上げのことか。あとで確認する。

 

 

博物館の壁絵。ツバメの多い島。ツナが獲れる海。

 

 

次に淵田美津雄・奥宮正武共著「機動艦隊」より。乙部隊の「隼鷹」に乗っていた奥宮航空参謀は、「今朝八時過ぎから小沢部隊の内部で交わされていた無線通信」を回顧している。嫌な予感があった。

 

その無線通信には「大鳳の飛行機を瑞鶴に移す」とか、「第一次攻撃隊は瑞鶴に着艦せよ」とか、なんとなく異常を感じさせるものがあったからだ。

 

 

前掲の古村参謀長の手記には、このころ「大鳳」の司令部は攻撃隊の成果報告が届かず、やきもきしていた旨のことが記されているが、火災やガス漏洩についての記載はなく、いきなり大爆発したとある。

 

他方で、「大鳳」の火災は、爆発の前に、目撃証言がある。司令部奥宮参謀の乙部隊は、午後一時ごろから帰投してくる攻撃隊の航空機の収容にあたっていた。二機、三機と収容し始めたころのことだ。眼鏡とは双眼鏡のことだな。

 

 

遥か南西の方に一大黒煙の騰っているのが見えた。何だろう? 私は不審に思って眼鏡で見たがよく分からない。ガソリンの煙のようであるが、飛行機が墜落して炎上しているのにしては少し煙が大きすぎる。

 

次第に距離を縮めてゆくと、それは母艦らしかった。城島司令官も小声で「大鳳らしいよ」と心配げにささやいた。そして午後四時ごろ、帰投してきた飛行隊の報告を聴いていたとき、「隼鷹が真っ二つに裂けたのではないかと思われる振動を感じた」。

 

 

しかしそれは彼の乗船の被害ではなかった。「艦内異常なし」の速報を聞いてから、ふと「大鳳」のほうを見ると、「つい二、三分前まで身もだえしながらその巨体を海上に横たえていた小沢中将の旗艦が最早その影すら止めていないではないか?」。

 

もう一人、前衛の乙部隊にいて、後に沈没する「飛鷹」の艦長だった横井俊幸海軍少将著「機動部隊最後の激突」が、「実録太平洋戦争 4⃣」(中央公論社)に収録されている。同日の昼の記録。

 

 

正午ごろ、ふと西方の水平線を見ると、真黒な二本の煙柱が空高くのぼっている。最も敵から遠くて安全だと思っていた第一航空艦隊がやられたらしい。だが、一向に様子が分からない。

 

午後二時矢矧から「翔鶴沈没。われ人員救助中」、つづいて羽黒から「一航戦飛行機を全部、第二航空戦隊および瑞鶴に収容せよ」といってきたところを見ると、大鳳もやられたらしい。

 

 

これらを読む限り、旗艦「大鳳」は同じ戦場にある僚艦に対し、緊急事態の報告電も打たぬまま沈んだらしい。前回の教訓によれば、防毒マスクも換気もうまく働かず、ガスで倒れた人も出ていただろうと思うのだが、司令部にはそれがしっかり伝わっていなかったのか。

 

それとも艦内の事態は承知のうえで、作戦継続を優先し、部隊内の混乱を避けるために被災の状況は積極的に伝えることをしなかったのか。これでは未だ分からないことばかりだ。ほかの本も読もう。

 

 

(つづく)

 

 

 

雨季でした。 (2024年3月11日撮影)

 

 

 

 

 

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