熱帯との気温差に負けて風邪を引いています。

 

 

本ブログで「練度」という用語を何度も用いてきたが、段々と使うのも気が重くなってきて、引用するときぐらいだけになった。本来は温度や湿度のように、単に度合いを示す中性的な言葉であるはずなのだが。

 

一方で温度や震度が地球のご機嫌次第で変わる自然科学的な客観性を持つのに対し、搭乗員の練度は人間が人間を評価して決めるので、どうしても誰がなぜ、どう決めたのかという論点がつきまとい、特に度合いが低い場合は本人なり指導者なり組織なりの、責任問題に発展しかねない。

 

 

手元の資料でも時々、「もちろん搭乗員たちの責任ではないのだが」云々という補足がつくのを目にするのは、私と似たような語感を得ているからだろうと思っている。訓練不足が彼らの怠慢に因るものではないと明言したいからだろう。訓練機会が不足したままで大勢の若者が死んだのだ。

 

さらに伊藤正德は著書「連合艦隊の最後」において、マリアナ沖海戦は搭乗員の練度が敗因ではなく、当日の日本海軍飛行隊にとって不運だった分厚い密雲と、米軍の技術(レーダー)の優位を原因に挙げている。

 

 

前掲の淵田・奥田共著書において、奥田参謀は航空部隊の再建も「人員の転入と機材の入手は遅々として捗らなかった。ようやく集まっただけの者で訓練を始めたのが、三月末だった」と回想している。マリアナ沖海戦の約三か月前。

 

ずっと昔、本稿では「一人前の搭乗員になるには十年かかる」という経験者たちの声を引用したのを覚えている。体力知力、精神力を要する特殊技能者だろうから、もともと適性と意志に優れた者を選び、更に長期間に及ぶ訓練や実戦により育てる。

 

 

そしてこの時期ともなると日本海軍は、人員を集める段階で苦労していたらしい。私は海軍の特に搭乗員の実力水準について無知であるが、ただし伯父が陸軍だっただけに、ここでも何度か触れたとおり、すでに陸軍では老兵・少年兵が増え続け、訓練期間も短くなっていたという回想を幾つかみてきた。

 

奥田参謀は中央に対し、前述のように新鋭機「彗星」を所望したが、それに加えて、「急降下爆撃のエキスパート阿部大尉を配員してくれた」と記録している。この先に登場するが、城島艦隊(乙部隊)で飛行隊長を務めた阿部善治大尉のことだ。

 

 

ダイサギは飛んでゆく

 

 

ところで、本稿の下書きを書いたときの半月ほど前、羽田空港で惨事があった。正月二日、離陸態勢にあった海上保安庁の航空機と、降下してきた日本航空の旅客機が滑走路上で衝突し、いずれも炎上した。

 

お亡くなりになった海上保安庁の五名の方々の冥福をお祈り申し上げます。無事だった皆さんも、その後、ショックや事故調査の対応などで、さぞかし今なお大変な思いをされていることと思う。交通事故の話は辛い。

 

 

なぜこの話題を出したかというと、これから似たような事故のことを書くので、無神経な進め方をしないよう自戒をこめてのことだ。タウイタウイにおける発着艦訓練で大破する航空機が複数出たのには既に触れた。

 

特に泊地が無風のうえ「低速の隼鷹」に乗った阿部大尉の「彗星」隊は、「唯の一機も発着艦訓練すら行うことができなかった」。彼らはきちんと飛行服を身に着けて、阿部隊長は波のない海面を見つめ、隊員たちは艦攻や九九式艦爆の訓練を見上げていた。この総訓練そのものが、タウイタウイで二回しかできなかった由。

 

 

この調子では上達どころか、腕が鈍る。これでも若いころ体育会系で8年ほど運動をしていたので覚えがあるが、二三日ほど動かないと筋肉がその分、衰えるのが分かる。そして体で覚えている技術が抜けてゆく。元に戻すだけでも大変だ。

 

乙部隊を含む小沢機動艦隊の主力が、タウイタウイを離れて中部フィリピンのギマラスに泊地を移したのは、昭和十九年(1944年)6月13日。午前九時に出撃。この日は早朝よりサイパンで敵の艦砲射撃が始まり、〇七一七、連合艦隊司令長官より「あ」号作戦決戦発動が下令された。

 

 

奥宮参謀はギマラスならば、付近に陸軍の航空機基地もあり、飛行機隊の訓練再興ができると聞いていた。近くのダバオに、小沢部隊の補給機材も準備されていた。ギマラスへの回航初日も飛行訓練を行い、九隻の航空母艦からひっきりなしに航空隊が飛び出していく。続きを転記する。

 

ところが、この訓練中、旗艦大鳳の甲板でただならぬ騒ぎがもち上がったのである。着艦をしくじった飛行機が発着甲板の前部にためてあった先着飛行機二機に衝突したのであった。あっという間に火を発し、みるみる大火炎が立昇る。

 

隼鷹の艦橋からでは、発着甲板の前部一帯が猛火に包まれていて、その状況が明らかでないが、相当の損害らしいことは見てとれた。甲板上を左右する人の波は容易に静まらない。

 

飛行機一機、魚雷一本造るにも、大変なお金と材料と時間と人手がかかる。この大事な時期に旗艦の上で、こうして数機が自らの手により失われてゆくのをみて、「暗澹とならざるを得なかった」。

 

 

一方、少し前に触れた「八幡部隊」は、横空の搭乗員を中心に編成された角田部隊への増派で「いずれも歴戦の勇士ぞろい、当時の日本海軍の最精鋭であった」と書かれている。特に老練な陸攻四十機には期待が大きな寄せられていた。

 

八幡部隊が出発の準備を急いでいた時、火災事故があり魚雷や機銃弾が次々誘爆し、陸攻約四十機の大半が損傷して、空中退避もできない状況となった。そこに敵機が来襲し、地上にあったほぼ全機が破壊された。

 

 

原因は航空技術工廠から派遣されていた一工員が爆薬格納庫の入口で信管を落とし、それが爆発したためだった由。この部隊も戦運に恵まれていなかった。そして小沢部隊では、気象が不安定な時期で、ギマラス出撃時には快晴、午後から曇天になって「大鳳」の火災事故があり、6月14日に到着したギマラス泊地も曇り。

 

そして翌15日、徹夜の補給作業が終わり、朝から好天であったが、そこに豊田長官からの「あ」号作戦決戦発動の電報が届いた。訓練の暇もなく、機動艦隊に「出動の令は即刻発せられた。午前七時、栗田艦隊を先頭にギマラスから出撃した。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

ミゾゴイ  (2024年2月19日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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