【お知らせ】 3月21日にソロモン諸島国のガダルカナル島から戻って参りました。体験したことや感想など、追って記事にする所存ですが、高温多湿の現地から毛穴全開で帰還した結果、やっぱり鼻かぜに悩まされました。疲れはとれた感じです。

 

 

 

まだ答えが出ていない疑問がある。アブラゼミはどの油と似ていて、この名が付いたのだろう。油色という色彩があるのだが、菜種油のもっと淡い色合い。祖父がアブラゼミをカーキーと呼んでいたのは軍服に由来すると思う。

 

中原中也は「茶色い戦争ありました」という。陸軍の戦いを想起するが、いつのことだろう。その詩集「山羊の歌」が世に出たのは、上海事変の二年後。発刊の三年後に中也は病で世を去った。盧溝橋事件の年。茶色い戦争はまだ始まったばかりだった。

 

 

話がそれたので戻そう。今回の題名「油」は、菜種油でもなく蝉でもなくて、石油のことだ。以前、軍政時代の山本五十六が、アメリカで石油事業を行っていた同郷の知人を、米国出張の際に訪ねたという逸話に触れた。

 

新潟では国内に数少ない油田の一つがある。それも五十六さんの故郷、長岡に近いらしい。当時の日本にとってアメリカは、最大の石油輸入元だった。これが仏印全域に日本軍が進駐したため禁輸措置を招く。その年の年末に対米戦が始まった。

 

 

本稿で最近読んでいる淵田美津雄・奥宮正武共著「機動部隊」の「第二部 マリアナ海戦」には、この「油」が足りないという話が繰り返し出て来る。機動部隊の航空参謀である奥宮海軍少佐は、航空燃料と航空隊の訓練がいずれも不足のまま、不安でしかたがない。

 

タウイタウイに向けて、乗艦「隼鷹」が大分の佐伯湾を出航してから早速、通信参謀の奥村少佐と二人、「航空参謀、ちょうど良い風向きですな」、「これで大分、油が助かるなあ」いう会話を交わしている。まるで機帆船の乗組のようだ。

 

ウグイス

 

 

著者によれば、燃料および防諜の観点からすれば、航空隊の訓練は内地でやるに越したことはない。しかし、すでに敵潜による通商破壊工作により、本土に向かう油槽船が次々沈められて、やむなく旧蘭印のそばに主力艦隊の泊地を求めるに至った。

 

リンガ泊地はパレンバンに近い。次のタウイタウイは、「ボルネオの油の産地タラカン」に更に近い。ところが、シーレーンが寸断されてきたため、距離の問題だけではなくなってきた。当該の箇所を引用する。

 

 

大艦隊になると、単に停泊しているだけでも燃料がいる。これがなければ艦内に電灯をつけることも、無線通信をすることも、大砲や魚雷その他の訓練も出来ない。ところがこの燃料は、その殆どすべてを南方動脈に依存している。

 

が、ますます活発になる米潜水艦の海上交通破壊のために、貯蔵が次第に萎れてきて

、船腹そのものも既に著しく急迫を告げてきた。なお、細かく言えばその油槽船とこれを護衛する艦艇の使用する燃料すら問題になるほどであった。

 

 

破壊工作の一例として、小沢司令長官がタウイタウイからダバオに進出せしめていた第一補給部隊では、ダバオの港外において、「最優秀の給油船建川丸」が敵魚雷三発の命中により瞬時に沈没した。

 

また旗艦「大鳳」で行われた洋上補給の研究会において、「補給艦戦の設備の不良が大問題になった」とある。ただし、具体的に何がどう問題だったのかは書かれていない。そのときは応急対策で何とかなったらしいのだが。

 

 

近代戦の海軍は、お互いに火気厳禁であるべき職場で働きつつ、相手を火力で攻めるという狂暴な戦闘を行う。致命傷を受けた側の損害は大きい。「大鳳」はせっかくの燃料を容れた設備が破損したのが原因で沈んだ。

 

それはまだ先の話で、いまタウイタウイに在る小沢艦隊は、燃料のみならず熟練搭乗員の不足にも悩み、敵潜の跳梁跋扈もあって洋上訓練もままならない。戦闘場面に入る前にあと一回、この訓練不足の件について同書を参照する。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

セグロカモメ  (2024年2月18日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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