暖冬の二月、カニさんを起こす。

 

 

後の回にて主に戦史叢書によ、、マリアナ沖海戦の検討経過を確かめるが、その前にもう一人、決戦海面にいた海軍軍人の記録を読む。長くなる。資料は市販本で、淵田美津雄・奥宮正武共著「機動部隊」。これまでも断続的に参照してきた。

 

本書は副題が「ガダルカナルからサイパンへ」となっている。この時期の前と後に起きたミッドウェーやルソン沖は、主なテーマになっていない。前半は南東方面、後半は中部太平洋方面。このブログの主戦場と同じ。偶然、私の郷土部隊の派遣先。

 

 

マリアナ沖海戦のとき、共著者のうち、淵田美津雄は連合艦隊司令部の航空参謀であり、「大淀」で眉間のしわを深めつつある。他方の奥宮正武は第一線におり、これから読む箇所、「第六章 タウイタウイ」は主に彼が執筆したものだろう。

 

奥宮参謀がこのブログに出始めたのは、第四航空戦隊の幕僚になってからで、昭和十七年(1942年)6月のAL作戦(アリューシャン方面)や、同7月の南太平洋海戦。そのころ彼の上官・司令官は、本ブログの現在、テニアンにいる角田覚治中将だった。

 

同年7月に組織改編で第三航空戦隊が新編され、その隷下の第二航空戦隊に所属し、指揮官官の城島高次少将の司令部員となる、そして昭和十九年(1944年)2月にラバウル基地に派遣された。それ以降マリアナまで、ずっと機動部隊の参謀だった。

 

 

この時期のラバウルは連日の戦闘で搭乗員の墓場とまで呼ばれるようになり、さらに同月トラック基地が大空襲に遭い、ラバウルの航空戦力は基地航空のみならず、城島少将の二航戦(著者は「城島部隊」と書く)もトラック基地に後退した。

 

城島部隊は満身創痍で、航空機は進出時の三分の一にも足りず、しかも命令によりその全てをトラックに置き、「全くの丸坊主となり果てて」、3月2日内地に帰還した。三隻の空母「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」は健在であったが、航空隊は一から作り直し。

 

 

苦労が絶えなかったようで、大仕事なのに当時、高島少将の直属の上官である小沢治三郎中将はシンガポールに、その上の古賀峯一大将はパラオに在るから連絡を取るだけでも容易ではない。

 

ちなみに城島高次は宇垣纒の「級友」で、このころの「戦藻録」のどこだったか忘れたが、「城島も大変だ」という意味のことが書かれていたのを覚えている。

 

 

 

アオジの散歩と水浴び

 

 

配下の奥宮参謀によると、「もともと、日本海軍の隘路はここにあった。人員も機材も、予定通りに集まっては来ないのである」。そこで直接、軍令部に当たってみた。何のために城島部隊はここまでして再建を急がなければならないのか。

 

その状況を尋ねた相手は航空主務部員の源田実中佐。「戦機は迫っているのだ。二ヶ月ぐらいで一通りの訓練を終了してもらいたい」。その背景事情などを源田中佐は、こう説明したらしい。

 

 

次に来る作戦は、日本防衛の天王山マリアナの攻防であるが、これを失えば日本としては、戦局の前途に目途はない。従って日本海軍としては、このマリアナの攻防戦を契機とする最後の艦隊決戦を予期している。

 

空母部隊はこの決戦の核心なのだから、是非しっかりやってくれ。軍令部としても、そのつもりで、搭乗員は可能な限り優秀、老練なものを補充するように連絡してある。このために、内地の教育部隊が弱体化しても、今はやむを得ない。もし要望があれば、何でも申し出てほしい。

 

 

一見して背水の陣を敷いたという宣言らしくあるが、よくよく読めば歯切れが悪い。負ければ全滅か降参だ、というような宣言ではない。「可能な限り」とか「やむを得ない」とか、強気の源田さんらしくもない。

 

特に「マリアナの攻防戦を契機とする最後の艦隊決戦を予期」というのは何か。マリアナの攻防戦は最後の艦隊決戦ではなく、その契機であると予期している。つまりこの後も続き得る。前にも書いたが最近読んだ複数の書籍に、マリアナ沖海戦の敗北は直接、特別攻撃の決行に結び付いたという説がある。追い追い確かめる。

 

 

奥宮参謀は、責任の重さを痛感しつつ、続いて赤レンガの海軍省人事局に赴いた。どうしても、城島部隊に欲しいものが二つある。一つは兵器で、もはや米空軍F6Fの敵ではない旧式の九九式艦爆に代えて、新兵器の急降下爆撃機「彗星」が必要だった。

 

最小限九機と要望し、当局は快くこれを容れた。もう一つは関連して優秀な搭乗員。急降下爆撃のエキスパート、阿部善次大尉が選ばれた。著者とはアリューシャンで同じ部隊におり、「ダッチハーバーの攻撃に活躍した歴戦の勇士」である。

 

 

岩国、佐伯、大分の三か所で航空隊が訓練に励んでいたころ、リンガ泊地に在る小沢司令長官より、城島部隊あて「幕僚一名送れ」という電報が来た。著者は二航戦および三航戦の幕僚代表として4月6日、福岡からシンガポールに飛んだ。

 

さらに出勤訓練中だった旗艦「翔鶴」に移り、六か月ぶりに会う小沢司令部より、次のとおり拝命した。「五月中旬、タウイタウイ集合」。驚き慌てて本土に帰還したのが4月16日。訓練と準備に大忙し。タウイタウイがどこなのかも知らなかった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

葛西臨海公園のクイナ  (2024年2月14日撮影)