タヒバリ

 

 

前回の続き。祝杯の話題。連合艦隊の参謀長として「あ」号作戦に携わった草加龍之介少将の名が前回の伊藤正德監修「人物太平洋戦争」および「丸」別冊にある作家、原史郎の投稿記事の両方に出て来る。

 

伊藤書においてはミッドウェーにおける南雲艦隊の元参謀長として、その敗因を連戦連勝からきた「驕慢」だったと語っている。厳しく秘匿された真珠湾奇襲と異なり、ミッドウェーの名は、酒場の女や郵便局まで知っていたと聞いた。米軍のニセ電信にも引っかかっており、情報戦でも負けた。

 

 

原史郎の文章では、マリアナ沖海戦のときの連合艦隊参謀長として、旗艦「大淀」にあった。第一次および第二次の攻撃隊が空母から発進した時点の回想が載っている。回想録の題名は不詳。

 

「今や何も心配することもない。へこたれたといっても、まだ角田部隊もいるし、それこそ祝杯をあげようかというくらいまでに勝利を信じていた」。

 

 

同じ連合艦隊司令部の作戦室には、たびたびその発言や回想記を引用している情報参謀の中島海軍中佐もいた。ふたたび「丸」別冊の中島親孝著「連合艦隊と中部太平洋戦争作戦」を参照する。「作戦室で見守る『あ』号作戦」という項がある。

 

思い出したら追記するが、以下、どこで読んだか忘れてしまった。中島参謀は、ニミッツの艦隊がビアクではなくマリアナに来ると事前に主張していた数少ない幕僚だった。ビアクに拘った司令部の同僚の本音は、燃料不足に悩んだ末の神頼みだった由。

 

 

 

では「丸」の手記に戻る。彼に言わせると、角田部隊(基地航空部隊)は「兵力消耗が大きく」、また「攻撃に専念しており、友軍のための哨戒、索敵に兵力を割かない」状況にあった。果たして敵空母を発見したのは小沢部隊だった。該当箇所より。

 

 

十八日午後二時半から一時間ほどの間に、機動部隊から敵空母三群発見の電報が入った。味方機動部隊はまだ敵に発見された様子がない。反転して明朝、適当な間合いをとるという。まさに理想的な態勢になったというべきである。

 

明くれば六月十九日、索敵機がつぎつぎと敵空母発見を報じ、攻撃隊は順調に発信しているらしい。距離がやや遠い感じがしたが、理想的なアウトレンジの態勢に持ち込んだようである。

 

 

木更津沖の司令部としては、「あとは結果を待つのみである」。ところが敵艦隊に接して攻撃を始める予定時刻の午前十時になっても十一時になっても、電報が来ない。仮に飛行機からの受信がなくても、それ相応に旗艦から何等かの連絡があってしかるべきだが、その気配もない。

 

先刻まで、祝杯の用意をしようかと沸き立っていた作戦室の空気がしだいに沈んでゆく。淵田参謀の眉間のしわが深くなってゆく。何となく不吉な予感がしてくる。しかし絶好の態勢にあったものが、一体どうしたというのだろう。

 

 

断片的に入り始めた情報によると、空中戦における損害が大きく、第二機動戦隊の第二次攻撃隊がグアム島上空で全滅した(前回参照)らしい。祝杯の用意どころではなくなってきた。

 

さらには第一次攻撃隊に対して、「瑞鶴」に帰れ、あるいは第三航空戦隊(前衛)に戻れという命令が出た。「大鳳」と「翔鶴」に何がおきたのか。敵機の攻撃を受けたという報告もないのにどうしたのか。作戦室には「陰鬱な空気」がみなぎってきた。

 

 

小沢艦隊が隷下の諸部隊に命じた内容も伝わって来た。「明日二十日、〇七〇〇第八警戒航行序列に占位せよ」。中島元参謀によると、ここで明朝の攻撃命令が出たということは、「これで夜戦を行い得るような状態でないことが明らかになった」。

 

別の心配が出て来た。Z旗が揚ったままだ。機動部隊は皇国の興廃この一戦にありとの命を受け戦闘継続中。「その任務を解き、行動の自由を許さないと、自殺的行動を取らせるかも知れない」。参謀長名で追撃は「一応兵力を整頓したる後」と指導した。

 

 

(つづく)

 

 

 

アカゲラ。後頭部が赤いのは♂。♀は黒い。

(2024年2月12日撮影)

 

 

 

 

 

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