昭和十九年(1944年)6月18日の日米両陣営による斥候合戦が終わった段階で、日本軍は米軍艦隊の所在を突き止めており、他方で米軍は日本側の艦隊をまだ見つけられずにいた。アウトレンジ戦法を進めるのに有利な展開になった。

 

この順調な出だしの報告を受けて、本土の連合艦隊司令部、海上の第一機動艦隊司令部のそれぞれにおいて、祝杯の準備が進んでいたという証言が複数ある。最初に関連記事を読んだ本は、伊藤正德監修「人物太平洋戦争」(週刊文春編)。

 

 

最初に登場する人物は、「マリアナ海戦の小沢治三郎中将」。19日に垂井飛行長が率いる甲部隊の第一次攻撃隊が出撃したとき、米潜が放った魚雷に「彗星」の機体ごと体当たりをかけた搭乗員の名は、本書に小松咲雄兵曹長と紹介されている。

 

伊藤書によると小沢中将は「この海戦がいかに無理の積み重ねの上に強要されたか、それを誰よりも知る」提督だった。その続きに小沢部隊の参謀長だった、元海軍少将古村啓蔵氏の証言が載っている。

 

 

色々な戦記に、この時作戦が計画通り進んだので、幕僚たちは雀躍し祝杯の用意をしたと書かれているが、そんな事実は毛ほどもない。作戦がうまく運んだことは良かったと喜んだが、祝杯などとんでもない。小沢長官が顔面を蒼白にして艦橋に立っていたのを、今でもありありと思い出せる。それ程に悲痛な出陣であった。

 

 

本書の発刊は昭和三十六年。ではその前の昭和三十一年に出た同じく伊藤正德著「連合艦隊の最後」を参照する。こののちに伊藤はどんな気持ちで、古村元参謀長の証言を「人物太平洋戦争」に載せたものだろうか。

 

伊藤書「連合艦隊の最後」の第六章に、「五 祝杯用意の出撃!」という項がある。冒頭に18日の午後三時半、三航戦の大林少将が攻撃隊を出動させ、数機が発進したところで小沢司令官が出撃を止めた件が出て来る。

 

 

本書によると米軍は、通常日本軍は索敵の約二時間後に攻撃隊が来ることから、迎撃の準備をして待機したが、「待ちぼうけを食った」。その一方、攻撃してきたのち日本の航空隊は、最寄りの航空基地であるグアムに向かうはずとみた。

 

19日朝、米軍は「大編隊をグァム島に飛ばし」た。これが後に、日本海軍に惨事をもたらす。そうとは知らぬ日本軍は、第一次攻撃隊の全一二九機を発進させた。まだ敵がこちらを発見した兆しはない。「計画通りに進んでいる」。その続きを転載する。

 

全機の勇ましい発進を終わるや、艦上の小沢長官、古村参謀長、大前先任参謀は、久しぶりで「祝杯」の機会が来たことを信じ、木更津沖の連合艦隊司令部でも同様に祝杯を語り合って一同微笑んだ。

 

 

祝杯を語るという表現になじみがないが、ともあれ一航艦は準備したと書いてある。小沢機動部隊は、この時点でまだ乙部隊の第一次攻撃隊の発進を待機させていたし、第二次攻撃隊の計画もあるから、まさか第一線で飲んではおるまいと思うが。

 

 

古村参謀長の回想記「あ号作戦発動さる」が、「実録太平洋戦争4」(中央公論社)に収録されている。祝杯云々の記載はない。仮に準備が進んでいたとしても、生き残った戦後にそんなことを言えるはずがない。もっとも、最初のうち気分は良かった。

 

 

以上でわが全攻撃隊は、三目標に向かってそれぞれ発進したのである。敵はまだ一機も姿を現していない。我は発見した三目標に対して、いままさに先制攻撃を加えようとしている。

 

思えば過去半歳にわたる飛行隊編成の苦心、急速訓練の苦心、さては待機一ヶ月の苦心、敵潜脱過の苦心および補給の苦心というように、まったく苦心の連続であったが、今日ここに無事、全兵力をもって敵に先制攻撃をかけ得たことを、私は神に感謝した。

 

あとは戦果の報告を待つばかりである。私には、今にも軍艦マーチが聞こえそうな予感がしていた。思いなしか、平素ぶっきらぼうの長官の顔にも、安堵の色がうかがえるように思えた。私は大鳳の戦闘指揮所で菊池艦長と「うまくいったなあ」と語り合った。

 

 

前掲の「人物太平洋戦争」の証言とは、ややニュアンスが異なる。さしずめ前者は文藝春秋の半藤一利記者が、担当の伊藤正德の著書を読んでおり、古村氏に面と向かって「祝杯、挙げたんですか」とあの調子で訊いたため、厳しい反論が返って来たか。

 

ともあれ、肩の荷が一つ下りた気分になったのは間違いないようで、安堵する気分もわかる。だが、暗転した。どこかミッドウェーと似ていないか。「敵潜脱過」は終わっていなかった。戦果報告も期待したものではなかった。では、連合艦隊と大本営海軍部ではどうだったのか。次回に続く。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

ヒクイナ。枕草子に出てくる「水鶏」はこの鳥のことらしい。

(2024年1月29日撮影)

 

 

 

(2024年2月17日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.

 

 

 

 

 

.