ルリビタキ

 

 

今回の参考図書は、辺見じゅん編著「昭和の遺書 南の戦場から」(文春文庫)。ちなみに辺見じゅんには、本作の前に発行された別物の「昭和の遺書」という似た題名の著書(別物)もある。いずれも「男たちの大和」のあとに書かれたものだ。

 

「編著」となっているのは、文章の構成が①各将兵の紹介、②その軍人が書いた遺書日記や手紙の紹介、③辺見による解説であり、すなわち核心の部分②が、他者の手によるものだからだ。巻末には、柳田邦男による渾身の解説文が収録されている。

 

 

十数名の遺書等を集めて各章が成り立っており、第1章が「前線と銃後と」、第2章が「惜別と望郷と」というふうに、遺書の趣旨により分類されている。第3章は「覚悟と死と」。その筆頭に垂井明海軍中佐が、妻の國子に宛てた遺書が載っている。

 

まず個人別の題があり、彼の項には「最重要ナル航空隊第一飛行隊ニ奉ジ」とある。書き手の紹介欄がその次に来ており、「東京都出身。第601海軍航空隊所属。昭和19年6月19日、サイパン東南海上にて、戦死」。30歳。

 

 

ジョウビタキ♂

 

その続きが遺言状の本文で、原文はカタカナ。そのままでは私の入力が大変だし、お読みの方々もきっと読みづらかろうなと思い、ひらがな及び現代仮名遣いに換える。

 

 

 垂井國子殿

神国日本の興廃、まさに定まらんとする秋(とき)に当り、職を最重要なる航空隊第一飛行隊長に奉じ、全海軍の輿望を担い、率先死力を尽くして仇敵を撃滅し、以て大御心を安んじ奉り得るは、日本男子としての本懐これに過ぐるもの無し。

 

いたずらに生に執着して国難を傍観し、汚名を後世に残さんか、はたまた事しあらば潔く花と散りて皇国に殉じ、以て光輝ある我が軍人精神を後世に伝ふると共に、神国を泰山の安きに置かんか。皇国軍人として取るべき道は一のみ。ここに栄えある死処を得たるを悦ぶ。

 

汝、日本の母とし妻として、我が戦死を憂ふることなかれ。我が魂は我子(あこ)稜に移れり。汝、全精力を稜の哺育に打ち込み、稜をして我が遺志を継がしめ、将来有事の軍人として神国日本の柱石たらしむべし。

 

決戦場に臨むに当り、所感を述ぶること、件(くだん)の如し。

 大君の醜の御楯と出立ば死して皇国を護らでやある

昭和十九年五月  明  (遺髪在中)

 

 

同年5月は六〇一海軍航空隊が、本土を発ち比国タウイタウイ泊地に向かったころに当たる。魂は我子の稜に移ったと書かれていることもあり、この遺言状は、妻子と最後の面談をした後、出発の前に書かれたものだと思う。

 

後半の辺見じゅんによる解説には、前回の面談の様子に加えて、二人の別れについてのもう少し詳しい経緯がある。國子のもとに「一ヶ月、鹿屋で訓練あり」という明の手紙が届いた。あまり時間が無い。妻は面談に行きたいと返事を出した。

 

 

しかし夫の返答には、長時間の電車の旅をすると、赤子の脳を刺激するからやめるようにと書いてある。内地に戻ったら会いに行くからとも書き添えてある。しかし國子夫人は「これが最後の面会になるような気がした」ため、子連れで鹿屋に向かった。

 

旅館で家族三人、五日間を過ごし、今日で最後と送り出した日から一週間、ずっと「別れの日」が続いた。すなわち天候が悪化し、出発できないという。夫の部下によると「奥さんの引力」が働いているらしい。結婚は開戦の前年で、「明さんのプロポーズの言葉」も載っている。辺見が國子さんに直接、取材したようだ。

 

 

「海軍の軍人は家を常に留守にするので、子供を育てるのは妻の大きな力が必要だ。そのためには健康で頭が良ければ、顔はどうでもよい。どんな美人でも、老婆になったら、皆、しわくちゃだ」というのが明さんのプロポーズの言葉。

 

「私は私で、海軍の人だったら戦争が終わったら色々と海外に連れて行ってもらえるだろう、と考えていたのですよ」。笑いながら新婚当時を振り返る。

 

 

ジョウビタキ♀

 

 

梅雨の寝苦しい夜、彼女は夢を見た。夫から内地に戻ったという連絡を受け、稜を連れて会いにゆくと、この飛行機に乗れという。垂井機は南方に向かうが、突然、夫は墓場に消えた。

 

落ち着かない日が続いたが、前回登場の同期、宇都宮道生氏から一通の手紙が来た。「故垂井明氏の級友であります」と始まる。8月31日に本土に帰還したので、ご遺族にお会いし、墓参りをしたいという趣旨だった。

 

だが國子はまだ、夫の死を知らされていなかった。夫からの最後の手紙に、若くて優秀な部下が次々と死んでゆくが、自分はまだそのように惜しまれる者ではないから、なかなか死ねない。「それがお前の感謝すべきところだ」とあったのだ。これが検閲を通ったのか。

 

 

戦死広報が届いたのは、三か月後の12月29日。その後の調査により、垂井機は「我突撃ス」の電報を残し、「米旗艦『インディアナ』に突入したものと思われる」と伝わってきた。また、前掲の遺言状が、戦死したら渡してくれと明より預かっていた伯父から届いた。辺見の記事の最後はこういうふうに終わる。

 

覚悟はしていたのですが、泣いて泣いて泣きました。涙を流しているときが一番幸福でした。

 

それでもあの人のことだから、どこかに不時着でもして、敢闘精神を発揮しているのではないかと思いました。差し入れには何か穀物の種でも入れてあげればよかったと、ずっと思い巡らせておりました。

 

 

夕刻の富士

 

 

私の蔵書に柳田邦男著「サクリファイス」がある。この単行本は出てすぐ買った覚えがある。彼の次男は自殺を図り、脳死の状態を経て他界した。本書の巻末にある解説の中で、柳田は「二人称の死」(自分にとっての「あなた」、すなわち「家族や恋人や親友・戦友の死)について語っている。

 

ちなみに、この「二人称の死」という概念は、柳田に限らず少なからずの論者が語っており、聞くところによるとフランスの哲学者、ウラジミール・ジャンケレヴィッチの「死の人称」に由来するものであるらしい。

 

 

二人称の死に直面する人は、その「あなた」が「よりよい死を迎えられるように条件を整えなければならない役割」があるとともに、「愛する人が死ぬということは、自分の心の中で、もう一つの死が訪れるということだ」と柳田は書く。喪失感と悲しみを抱えての日々を送らなければならない。柳田は辺見の解説文をこう評価している。

 

附記された報告から家族の像をイメージし、そのうえでもう一度戦死者の言葉の一言一言に、「二人称の死」を体験した者に近づく心で耳を傾けるなら、あの時代の人々が何百万という死をもって未来に伝えようとしたものを汲み取ることができるに違いない。

 

 

辺見じゅんは「あとがき」の中で、信州上田に伝わる話を紹介している。大平洋戦争の末期に上田では、たくさんのカラスがいつの間にかいなくなった。坊さまのように黒い衣を身にまとったカラスは、南方に弔いに行ったのだ。

 

信州の歩兵第五十連隊は、我が伯父と同じ戦争でテニアンの守備に就き、壊滅した。遺骨も遺品も殆ど戻っていなかっただろう。カラスは慰霊を託されたらしい。これにて垂井明海軍中佐についての連載を終える。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

上野公園 木瓜の花  (2024年2月13日撮影)

 

 

 

 

 

 

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