【おしらせ】 明日8日より、戦没者の慰霊および遺骨の収容のため、調査団の一員としてソロモン諸島国ガダルカナル島まで二週間の旅程で渡航します。下書きは自動的にアップする設定になっておりますが、コメントのお返しなどは遅れますのでご了承ください。

 

 

モズ♀

 

 

時々同じことをつぶやく。文献や出土品や伝承を集めに集めても、歴史の実相は一部しか分からない。資料のどれを採択し、どのように実像に迫ってゆくのか判断しながら進める点は、研究者でも作家でも報道機関でも、素人の歴史好きでも変りない。

 

しかし世の中には、作家の云うことが気に入らないとき、しょせんフィクションばかりと言い出し、都合のよい学説だけ持ちだして研究職を文筆家の上に置く者が多い。学者だって専門家だって間違えるのに。松本清張が戦後の難事件の解決に取り組んで評価を得たころ、警視庁では「小説家に負けるのか」と幹部が部下に発破をかけた。

 

 

歴史は相手が人間だから、そういうことも起き得る。ついでに、人間相手だけではなくて、民間人がプロ顔負けの調査研究結果を出す分野は他にもある。化石の発掘とか、昆虫の新種発見とか、小惑星や彗星の新発見とか。好きこそものの上手なれ。

 

今回は作家の文章を参照するので、以上ご託を並べつつ、自説を改めてご披露申し上げた。本ブログで作家の文章を参照文献にすることが多いのも、作戦や兵器より人間のほうに関心があるので、どうしてもそうなる。どちらが上という話ではない。

 

 

今回も「丸」別冊「玉砕の島々」より、作家の森史郎「小沢機動部隊『攻撃部隊』の実力」を参照する。彼のいう「攻撃部隊」というのは、前回まで戦史叢書が「攻撃隊」と記していたものと同じと考えてよいだろう。最初の段落を転載する。

 

緒戦での華々しい戦果を挙げたヒーローを真珠湾攻撃の総隊長淵田美津雄中佐とすれば、昭和十九年の決戦期で匹敵する存在とは、マリアナ沖海戦での飛行機隊総指揮官垂井明少佐ということになる。

 

 

真珠湾当時の淵田飛行隊長は39歳という異例のベテラン。同期の源田参謀の人選だった。マリアナの垂井飛行隊長は31歳で戦歴に差があれど、二人とも百数十機の第一次攻撃隊を率いて先頭を切った総隊長である点において、森は「ほぼ同格」という。

 

以下、作家の常で出典や参考文献は、余り示されていない。学術の世界では許されないことなのだが、文藝では許される。だからいい加減だという人もいるだろう。私に言わせれば、売り方の違いなのだが。垂井隊長に関しては、戦友に取材した模様。

 

 

その名もオナガガモ♂ 上は♀

 

 

三航戦の参謀だった吉住幸男少佐は、「大鳳」で図演が行われた後、海兵同期の垂井明の私室に招かれ、三十分ほど昔話を楽しんだ。これが二人の最後の会話になった。垂井の部屋は引き出しの中も含め、私物が一切なかったが一つだけ例外を見た。

 

ただ一つ、胸を衝かれたのは机の上に飾られた一枚の写真である。出撃前、はるばる鹿屋基地まで訪ねて来た妻と生後十ヵ月になったばかりの息子の記念写真だった。

 

 

この部屋の様子から、吉住は垂井の「攻撃隊の総指揮官としての友の覚悟を悟った」と戦後四十九年後の回想記に書いている。もう一人同じく海兵同期の宇都宮道生少佐も「大鳳」の艦橋下にある飛行隊長室で、垂井隊長に会った時の回想を残している。

 

垂井は宇都宮に、「若い連中が多くて、練度がまだまだ足りない」、「一五〇マイルていどの海上練習をやらせても、帰ってこない飛行機があるんだ」などと語った。運動選手だった垂井の爽やかな表情は一変しており、「面やつれして焦燥に満ちた眼の色をしていた」。

 

 

垂井少佐の主な軍歴は、偵察学校出身、開戦時は舞鶴の航空隊付、鈴鹿空の分隊長兼教官、南方前線勤務。そのあと内地に戻って六〇一空の飛行隊長となり、「鹿屋では、天山艦攻の指揮官席に搭乗して編隊訓練にあたっていた」。

 

その訓練のさなか、新妻の国子が生まれて十ヵ月の息子稜を抱き、伊勢にあった官舎からはるばる夫を訪ねて来た。前出の写真は、その時ものだろう。そしてこのときの夫の表情を国子夫人が「たむけぐさ」という思い出の記に書いた。引用の引用。

 

連絡を受けて迎えに来た主人とは、伊勢で別れて僅か十日目だというのに、何と痩せ疲れた顔でしょう。口には出さない乍ら、如何に大変であるかを知り、胸のつまる思いでした。

 

 

タヒバリ

 

 

先回その手記を参照した第一機動艦隊の航空乙参謀・田中正臣少佐は、垂井隊長の兵学校の四期上で、飛行学生時代の教官でもあった。いま二人とも「大鳳」艦上にある。二人きりになったとき、田中参謀は「総隊長、作戦に自信はあるか」と訊いた。

 

垂井総隊長は「いや、とにかくやってみるしか方法はないでしょう」、「自分は、死を覚悟しております」と応じた。また垂井少佐は上記の宇都宮少佐に対して、アウトレンジ戦法に関し批判的な発言をしている。上記の訓練不足に関する発言の続き。

 

 

司令部の参謀たちは理想的な状況ばかりを考えているが、それを実現するための訓練ができていない。しかも敵はレーダーを持っているから、どんなに遠距離から攻撃をかけても必ず発見されてしまう。

 

それなら、むしろ未熟な搭乗員に負担がかかるアウトレンジを止めて、母艦同士をぶつけるくらいに近づかなきゃだめだ。米空母と差しちがえるくらいの覚悟でないと作戦の成功はおぼつかない。

 

 

森史郎によると、淵田美津雄も自著「小沢提督と母艦作戦」において、同じことを主張しているそうだ。提督も司令部も、搭乗員の腕の未熟さをカバーしてやらねばならなかった。「敗れたあと艦隊が残ったとて、何のかんばせがあろうか」。

 

真珠湾の日曜日の朝、敵さんの大半はのんびりしていた。このたび目前に迫りくるスプルーアンスの艦隊は、直前までマリアナ諸島で艦砲射撃や空爆、上陸作戦に携わっていた。しかも日本の艦隊が比国を出撃したのも知っている。双方、臨戦態勢で空戦が始まることになる。海軍航空隊にとって、先制攻撃ではない。

 

 

(つづき)

 

 

 

 

夕暮れ時のカンザクラ  (2024年2月13日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.