前回に引き続き寺崎隆治氏著「小沢中将と『あ』号作戦」を読む。小沢艦隊がギマラス泊地に集結したのは昭和十九年(1944年)6月14日の午後三時。徹夜で合計1万8千トンの給油を行った。終わったのが翌15日の午前7時。

 

この日の早朝、米提督ミッチャーの機動部隊が、艦隊から離れサイパン島をめざして上陸作戦を開始した。日本側の反応は早く、午前7時17分に旗艦「大淀」の豊田長官が「あ号作戦決戦」を発動、7時30分には小沢艦隊がギマラスから出撃した。

 

 

午後5時30分に「サンベルジノ海峡を通過し太平洋に進出」した。この海峡のカタカナ表記は、通常「サンベルナルジノ」。中世欧州の聖職者の名で、ロサンゼルスのそばに同名の都市がある。レイテ沖海戦で再登場する。位置はギマラス島の北東、ルソン島とサマール島の間にある。

 

夜8時38分には後方から敵潜水艦「フライングフィッシュ」の長文の発進電報を傍受した。すでに見つかったらしい。16日は天候不良で索敵機を出せず、予定の時刻に予定の場に発見できずにいた補給部隊とは、午後3時30分にようやく合流を果たす。

 

 

この時に「隼鷹」から艦爆二機を発進させて、輸送船団の捜索にあたり、うち一機が輸送船団を発見、「大鳳」「隼鷹」に「報告球」なるものを落とした。このあと渾作戦から帰投してきた宇垣部隊との合流も果たす。

 

6月17日から18日にかけては天候も回復し、偵察活動が活発になった。18日の午後二時から三時にかけて、計三群の敵機動部隊を発見。位置は小沢艦隊とサイパン島の中間で相手はこちらに向かい西進して来る。

 

 

地面で食事中のトンビ

 

 

日本軍の陣形および指揮官名を改めて整理すると、艦隊は大別して前衛部隊(長、栗田健男中将)と主隊(長、小沢治三郎中将)からなる。前衛部隊には第三航空戦隊(長、大林松雄少将)も含まれている。三航戦の作戦名は丙部隊。

 

主隊には「戦藻録」に甲乙部隊と出て来たように、甲部隊の第一航空戦隊(小沢長官直率)と、乙部隊の第二航空戦隊(長、城島高次少将)の二つの輪形陣がある。著者も奥宮正武参謀も、この城島司令部に所属している。

 

 

18日午後3時30分、前衛の三航戦の大林司令官は、空母「千代田」より計二十一機の攻撃隊を発進させた(戦爆十五、艦攻二、戦闘機四)。淵田美津雄・奥宮正武共著「機動部隊」より補足すると、奥宮参謀はこれを知り、「おやおや」と思った。

 

すなわち規定の計画には含まれていなかったようで、小沢長官の攻撃命令もなく、このため奥宮参謀は「空中待機の意味で発進させたのではないか、と考えた」。しかし小沢長官は、攻撃中止を命じた。著者の寺崎元参謀は、こう書いている。

 

その理由は日没まで三時間しかなく、攻撃隊を発進させても、敵艦隊に達するのは日没ごろとなり、帰艦が夜となる。練度不足のため、夜間、母艦に帰艦できない搭乗員が多くなるからである。

 

 

源田実「海軍航空隊始末記」より。このとき軍令部の第一部員だった源田中佐は、中澤佑部長や山本第一課長らとともに、軍令部の作戦室に詰めていた。敵機動部隊三群の発見報告が来た。薄暮攻撃も可能かと思った。

 

果然、第三航空艦隊旗艦から「攻撃隊発進」の電報が届いた。いよいよ決戦に移った。作戦室には緊張の気が漲った。「小沢対スプルアンスか」、と中沢部長がつぶやいた。

 

 

源田元軍令部員の回想によると、大林部隊は薄暮攻撃の後、母艦に戻らずガム島に着陸させるつもりで攻撃命令を出したらしい。このあたり、わが当事者は帰りの心配をしていたようなのだが、実際はそれ以前の問題だったのだ。

 

千早正隆「聯合艦隊興亡記」より。同じく米軍も、18日は西進を途中で断念し、反転している。ミッチャー提督は前進を進言したが、指揮官スプルーアンスはまだ日本の艦隊を発見できておらず、これを退けた。同書本文から転載する。攻撃中止の命令後の場面。

 

 

そして小沢部隊は翌十九日の朝から攻撃をかけることができるように、十九日の午前三時から進路を北東に転じて速力を二十ノットに増速した。

 

その夜の敵の行動に関しては、小沢中将の言葉をかりれば「スプルーアンスは遠くサイパンから離れて出てくるとは考えていなかった。なぜならば、彼は理詰めの性格だから、上陸地点を空にするような冒険をするような男ではない」と判断していた。

 

そして事実の証明するところによると、これほどよく敵の心を読み得たものはなかった。この十八日、アメリカ側は懸命な努力にもかかわらず、日本艦隊をついに発見することができずに、その日の一日中を焦燥のうちにすごしたのであった。

 

 

千早書によると、米軍のレーダーが初めて日本軍の所在位置を捉えたのは、上記の三航戦の攻撃部隊発進時であった由。これで双方において、翌朝の交戦が本決まりになった。小沢長官からの攻撃命令はなかったが、他方で出撃禁止の命令も出ていなかった。上記は大林司令官の独断であったということだろう。

 

スプルーアンスは上陸地点を空にはしなかったが、艦隊を留守番と攻撃部隊の二手に分け、彼自身はサイパンを離れて決戦海上にある。このため、サイパンの南雲部隊からの通信が残っているが、米軍の上陸も「一段落」したかのようにみえたらしい。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

まさか昼間にデジカメで撮るとは想定外。

葛西臨海公園のフクロウ。 (2023年12月27日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

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