月と航空機

 

 

本ブログで何気なく、その名を繰り返し出している「アウトレンジ」という戦法は、マリアナ沖海戦だけではなく、けっこう戦史に出て来る用語。これから資料を当たりながら、その概念や効果などを勉強してゆこう。

 

これまでの私の印象は、武蔵が巌流島に向かう小舟の上で武、小次郎の長剣に抗すべく櫂を削って木刀に仕上げている姿。リーチの差で勝つ。とはいえ、マリアナ海戦のアウトレンジは、その一撃だけで勝つという作戦ではない。その続きがある。

 

 

前回まで「丸」別冊の手記を引用してきた。この雑誌には他にもまだマリアナ沖海戦に関係する記事がある。今回の資料は、前掲の回想録と同様、連合艦隊の参謀が著したもの。ただしこの戦いや小沢長官の見方が他とは違うのが興味を引く。

 

今回からの参考文献は、「丸」別冊「玉砕の島々 中部太平洋戦記」収録の寺崎隆治氏著「小沢中将と『あ』号作戦」。著者は「当時第二航空戦隊先任参謀・海軍大佐」と紹介されている。

 

 

 

二航戦だから、この決戦において小沢司令長官の司令部とは違う部隊にいる。一方で若いころから小沢長官とは縁があり、著者にとって「緒戦いらい浅からぬ因縁にあって心服する小沢提督」であると「丸」の説明文中にある。

 

因縁のきっかけは著者が海軍砲学校高等科の学生だったとき、水雷学校兼砲術学校の教官(戦術科長)が小沢治三郎中佐だった。定説を覆す提言をするのが小沢治三郎という軍人の本懐であったらしい。

 

 

上記の学校では、戦艦は昼間だけ働くのではなく、夜戦にも参加しなければ駄目だと教え、学生を驚かした。昭和三年には第一艦隊を戦艦、第二艦隊を夜襲部隊(水雷船隊、巡洋艦)という編成にすべきであると提唱し、これは翌年に実現した。

 

日露戦以来、「わが海軍が虎の巻とした海戦要務例」は古いと断じ、いっさい読むなと厳命した。良く知られているのは、昭和十五年、第一航空戦隊の司令官時代の意見具申で、「母艦航空戦力こそ艦隊戦闘の主攻撃兵力である」という主張だった。

 

 

その母艦航空戦力(当時の第三艦隊)の指揮官として、小沢が南雲の後を継いだのは南太平洋海戦後の昭和十七年(1942年)11月。本ブログに初登場したのは翌年の「い」号作戦時のラバウルだった。間もなく海軍甲事件が起きる。

 

提言後、更に時間を要し、母艦航空戦力の指揮者が全部隊の統一指揮をすることになったのは昭和十九年(1944年)3月の編成だった。すなわち海軍甲事件の直後、「あ」号作戦を練っているとき、第一機動艦隊(長、小沢治三郎中将)が発足した。

 

 

我が国最小の鳥 キクイタダキ

 

 

すでにラバウルもトラックもパラオも、度重なる空襲で大きな損害を受けた後になって、ようやく出番が回って来た。「痛手を負った航空艦隊長官の重責についたのでる」。心服しているだけあって、二人の関わりを記すくだりでは「小沢さん」。

 

私自身は南遣艦隊参謀のあと、小沢さんの推薦により航空に転じ、小沢さん隷下の第三艦隊の空母翔鶴副長、第二航空戦隊先任参謀、そして、さらに連合艦隊参謀としてお仕えした浅からぬ因縁がある。

 

 

この著者が語る「アウトレンジ」戦法の由来をみよう。米軍機は防御に優れ、燃料タンクに防弾ゴムをほどこし、弾丸が命中しても自動的に弾孔が塞がる。そしてその分だけ重い。「わが方は、その重量を燃料とする攻撃力増加にふり向けたので、攻撃距離が約百浬ほど長かった」。リーチの長さは、安全性と引き換えか。

 

小沢長官は、加えてミッドウェーの教訓を踏まえ、「周到な三段索敵」を計画に取り入れることにより、「敵よりも早く敵を発見し、遠距離からの先制攻撃すわなち『アウトレンジ』戦法を案出した」。

 

 

先制の目標は敵空母の甲板を破壊し、連続して航空攻撃を行いつつ、これに策応して前衛部隊(第二艦隊、長・栗田中将)が肉薄し敵を撃滅する。また、レーダーは敵が上なので、早期発見されぬよう、航空部隊は低空飛行で敵空母軍に接近する。

 

二式艦上偵察機、彗星、天山などの新兵器も心強い。だが新兵器であるがゆえに、若手はもちろんベテランでも相応の訓練が要るだろうが、搭乗員は「若雛」ばかりであり、練習中の事故が絶えない。泊地が遠方で、人員も物資も補給が容易ではない。

 

 

5月3日、大本営の決定に基づき、それまでシンガポールにいた小沢さんに、連合艦隊の豊田新長官から、タウイタウイに進出、集結せよとの命が下った。位置的にはともかく、タウイタウイの欠点は、まず陸上航空基地がないこと。錬成に使えない。

 

そして、すでにこの時期、敵潜水艦が五月蠅い。後に小沢長官はタウイタウイにおいて、「事前の調査をしないでこの地に集結したのは非常な誤りであった」と著者らに語ったとのこと。ガダルカナルでさえ、少しは事前の調査をしたのに。

 

 

タウイタウイに小沢部隊主力が集結したころ、著者の第二艦隊や第三艦隊は内地にて訓練中だった。連合艦隊命令により佐伯湾に集結し、本土の期待を背負ってタウイタウイに向かった。パラオで雷撃を受けて修理中だった戦艦「武蔵」も同行している。

 

小沢艦隊は6月13日、マリアナ諸島への艦砲射撃が始まった日、旧蘭印に近いタウイタウイから移動し、比島中部のギマラス泊地に移動した。フィリピン中部の地図をみると、東からサマール、レイテ、セブ、ネグロス、パナイなどの島々が並んでいる。

 

 

ネグロス島とパナイ島の間に、小さなギマラス島がある。ネグロスとギマラスの両島間の水路は、今もギマラス水道と呼ばれている。泊地はこの水路の北部に置いたらしい。海上保安庁のウェブサイトに古海図が載っているのでご参考まで。

 

 

 

最後に余談。拙宅近所の谷中墓地に、間もなく一万円札の顔になる渋沢栄一のお墓がある。その敷地に立つ巨木を、私はこれまでクスノキと書いてきたのだが、新設の立て看板によるとタブノキ(クスノキ科)というらしい。

 

 

(つづく)

 

 

 

渋沢公墓前のタブノキ  (2024年1月24日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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