シロハラ(左)とアカハラ(右)

 

 

前回の続き。著者の田中正臣海軍少佐はマリアナ沖海戦のとき、第一機動艦隊の航空参謀として「大鳳」艦上にあった。艦橋には小沢治三郎司令長官のほか著者、軍医中尉、見張り担当の中尉がいた。

 

著者によると小沢長官には股肱の臣が二人いて、ガダルカナルの戦いが始まったときラバウルの第八艦隊参謀だった大前敏一中佐・先任参謀と、水雷出身の有馬高康中佐・作戦参謀が幕僚として乗艦しているが、二人は「ミッドウェーの教訓」を踏まえ防禦甲板の下にいた。

 

 

著者は心配事を幾つも抱えていたと書いている。若手搭乗員ばかりであり、しかもタウイタウでは一ヶ月もの間、「カン詰め」状態で思うような訓練ができていない。機材も航空機のコンパスなど、格納庫の中に置いたまままで整備が行き届いていない。

 

この「カン詰め」状態については、他の記録にも多く出て来る。タウイタウイ泊地はこの一か月間、無風であった。風が無ければ航空機も凧も舞い上がらない。飛行訓練どころか、著者は搭乗員の「体がなまっていた」と回想している。

 

小沢艦隊は、真珠湾やミッドウェーのときと配置が異なり、前衛に大鑑巨砲を置いている。すなわち前衛部隊(長、栗田健男中将)は戦艦「大和」「武蔵」「金剛」「榛名」ほか。さらに第三航空戦隊の空母「千歳」「瑞鳳」「千代田」を配した。

 

 

「前衛は本隊より約百浬ほど先行していた。この部隊は敵の航空攻撃を受けた場合、強力な対空砲火によって最初の攻撃を吸収するという任務であった」という説明がある。この任務の厳しさと緊張が、後述するがごとき事故を招いた一因かもしれない。

 

続航する本隊に「二群の輪形陣」があり、すなわち第一航空戦隊(後出の甲部隊)の「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」、さらに第二航空戦隊(乙部隊)の「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」。これまでの母艦戦と異なり、主力空母から発進する航空部隊は、前方に前衛部隊を見ながらの飛行となる。

 

 

著者から見た小沢長官は長身、柔道で鍛えた筋肉質の引き締まった身体に、「鬼瓦」とあだ名された、いかつい顔を乗せ、艦橋に泰然と突っ立っている。この物に動じない風格が全軍の信望を集めていたとある。

 

先述のとおり著者の声掛けに応じて長官が「第一戦法発動」を下命し、「総指揮官垂井明少佐の指揮する雷撃隊、艦攻隊、戦闘機隊がつぎつぎと発進していく」。昭和十九年(1944年)6月19日の朝だった。

 

 

ところで一般に、敵味方の航空機が交錯する母艦戦において、さらに海上の艦隊も複数の部隊に分かれているとき、海空の諸隊はいかなる手段で交信するのだろう。あるいは、しないのだろうか。無線封鎖とよく聞く。そして、この日はどうだったのか。手記の続きの箇所(第一次攻撃隊発進後のこと)を転載する。

 

この味方の飛行機隊が、前衛部隊の上空に達したとき、なんの錯誤か、突然、巨艦武蔵の巨砲が編隊を狙い撃ちし、その数機を味方打ちにより撃墜してしまった。垂井機の味方識別バンクにより、被害は数機ですんだが、何たる醜態であろう。

 

 

これが戦史叢書にあった「味方の攻撃」のことだろう。公刊戦史は同士討ちの被害者が垂井隊であることには触れていたが、攻撃したほうは伏せていた。著者によれば戦艦「武蔵」なのだという。

 

 

 

 

垂井機はこの日の出撃において未帰還となり、飛行隊長の証言は残っていない。このためか回想録などは筆者により、被害の機数などが異なる。同士討ちの件については、前衛の「武蔵」で艦隊を指揮していた宇垣纒中将の「戦藻録」にも記載がある。

 

ただし、「武蔵」が友軍機を撃ち落したなどという記述はない。以下、6月19日の日記より抜粋する。「あ」号作戦決戦発動から数えて第五日。適宜句読点を入れ、現代仮名遣いに改める。

 

 

六月十九日 月曜日 晴 雲あり時に少スコール (前略)

味方攻撃機は続々と出発せるも、甲乙両部隊は隔離しあれば動静不明なり。〇八過ぎ西方に約百機の大軍を発見し、第十一群に向かって高度三〇〇〇位にて進み来たる。

 

第十群の高雄は同方向に対し方向指示の高角砲四発を発射し、前衛指揮官また警報電を発したり。次第に近接し来るも敵味方不明なり。よって増速回避運動を行う。この時に至り巡洋艦先ず発砲せば、われ遅れじと空母、駆逐艦まで猛射を浴びす。

 

 

距離一五粁附近、わが射弾の前方に落つるを見て、飛行機は初めてバンクを行いたるをもって、ただちに射撃中止を電話にて令するも通達にはなかなか時間を要し、ついに撃墜二機を生じたるは遺憾なり。

 

後刻「われ味方前衛上より攻撃を受く」の本隊第三次攻撃隊の電を受く。敵来たるに備えて張り切りあるところへ何の味方識別も行わず、高度高く大軍をもって進行し来る。当然の結果なるべきも西方に甲乙部隊あり。味方識別に注意すべく、警告を発したり。

 

 

両者の言い分をそのまま容れると、それぞれ別件のごとしである。田中航空参謀によれば、第一次攻撃隊の垂井隊が「武蔵」に撃たれたのであり、宇垣司令官によれば、第三次攻撃隊を撃ったが、戦艦は発砲していない。

 

しかし二回あったとすれば、両者ともその片方にしか言及していないというのも不自然であり、一件のみというのは戦史叢書の記載も同じ。このあと空戦が始まり、翌日には戦線離脱という急展開があったし、損害の大きさは本件の比ではなかった。

 

このため、綿密な調査や記録が行われなかったとしても不思議ではない。とりあえず迷宮入り。垂井隊については少し間をおいてから再度、触れることにする。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

帰省時に新幹線の車窓より  (2024年1月9日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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