ユリカモメ 並んだ水兵さん

 

 

マリアナ沖海戦は、実際の戦闘期間こそ昭和十九年(1944年)6月19日と20日の二日間であるが、そこに至るまでの経緯を全て時系列で書くと読みづらくなりそうだ。すでに連合艦隊の「あ」号計画や、テニアンの第一航空艦隊は個別に取り上げている。

 

そこで他の事柄も手元資料の範囲内で、大きく出れば編年体ではなく、司馬遷の列伝体のように書くことにした。なお、ミッドウェー海戦も三日間で終わり。機動部隊の決闘は居合のごとし。日本海軍はいずれにおいても旗艦を沈められて敗退した。

 

 

今回の題名にある元海軍軍人・垂井明氏の名は、戦史叢書に僅かに出て来るほか、著名な通史にはほとんど言及がない模様。ところで例えば、軍隊にとって何か都合の悪いことに関わった人の名は、軍事史に残らないのか。それに彼が何か不都合でも起こしたのか。

 

全くの無名の軍人ではない。それどころか、彼はマリアナ沖海戦の飛行隊長の一人であり、旗艦「大鳳」から出撃している。飛行隊長といえば、責務や階級の違いはともあれ、真珠湾攻撃の淵田美津雄は「赤城」飛行隊長だった。空戦の司令官である。

 

 

垂井明という氏名だけでネットの検索をしても、ほとんど情報が無い。それでは紙資料に頼るとして、まず先述の戦史叢書(12)「マリアナ沖海戦」においては、私の見落としがなければ、一か所にのみ登場する。

 

第一機動艦隊(小沢部隊)司令部は、6月19日の敵機動部隊発見の索敵報告に応じ、隷下の三コ戦隊に第一次攻撃隊の発進を命じている。このうち主力の「甲部隊」と名付けられた一航戦(「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」)。その第一攻撃隊は、二つの飛行隊からなっていた。該当部分を転記する。

 

一航戦第一次攻撃隊  

編成は左記のとおりである。

 前路索敵隊(指揮官 深川静夫大尉) 天山二機

 攻撃隊(指揮官 垂井明中佐) 天山ニ七 彗星五三 零戦四八機 計一二八

 

 

一般に戦史叢書では佐官の出番がこの程度で終わることも珍しくないかもしれない。だが垂井中佐の攻撃隊では、この少し後の記述に、特別な出来事があったことを記している。「大鳳」を知る方々におかれては、きっとみなさん、ご存じのエピソード。

 

攻撃隊は〇七五発艦(艦位一二度二九分北一三六度五八分東、進路五十度)、〇八〇五旗艦上空を発進した。発進直後彗星一機は「大鳳」を雷撃した米潜水艦の雷跡を認め、これに対し自爆した。〇八四〇分、味方前衛隊の上空通過時、味方から攻撃を受け若干の被害を生じている。

 

 

これらの出来事のもう少し詳しい内容や印象は、目撃者等の回想録などを後の回にて参照する。戦史叢書の後段に、「大鳳」が雷撃を受けたのが〇八一〇(上空発進の五分後)とあるので、後に確認するが、彗星が海に突っ込み自爆するも、敵魚雷は「大鳳」に命中したらしい。

 

これは同時に発射された別の魚雷か。いずれにしても、この被雷が垂井隊長の失態とは言えまいし、それに、同隊が「味方から攻撃」を受けたという件についての具体的な詳しい記述もない。どうも歯切れが悪いと私は感じる。

 

ハクセキレイ

 

 

ちなみに戦史叢書によると、理由は不明であるが主力一航戦から発進した第一次攻撃隊よりも、三航戦(「千歳」「千代田」「瑞鳳」)の第一次攻撃隊(指揮官 中本道次郎大尉)の発進時刻のほうが32分ほど早い。前衛に位置していた関係か。

 

残る「乙部隊」の二航戦(「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」)の第一次攻撃隊(指揮官 石見丈三少佐)の発艦は遅れて9時ちょうど。遅くなった理由は、追って二航戦の参謀だった奥宮正武少佐(当時)の戦後の著書で読む。後方で待機していた由。

 

 

今回は中身に言及できなかった上記「味方から攻撃」の件と、小沢部隊が主力と前衛に分かれていた点については、次回の記事で当事者による回想録を参照する。以後しばらく雑誌「丸」別冊の「玉砕の島々 中部太平洋戦記」を読む。

 

最後に垂井飛行隊長の階級は、上記戦史叢書では中佐になっているが、これは特進によるもののようで、彼と同じ決戦海面にいた戦友ほかによる資料では、海戦の当時は少佐になっている。垂井機はマリアナ沖から未帰還のままだ。

 

 

(つづく)

 

 

 

秋田犬  (2024年1月6日撮影)

 

飼い主さんによると血統書付き。「あきたいぬ」と読む。「人間にだけは獰猛ではない」。渋谷のハチ公も秋田犬です。