これまでに幾人かの回想録などから、サイパンへの敵上陸についての様子を伺った。続いて今回より、陸軍の戦史叢書で全体像を確認のうえ、同時並行で進むことになる海軍の「あ」号作戦に話題を移す。昭和十九年(1944年)6月の出来事。

 

戦史叢書(6)「中部太平洋陸軍作戦<1> ―マリアナ玉砕までー」は、5年余り前に本ブログを始めた際、伯父の軍歴証明書に陸軍兵長としてテニアン島で戦死と書かれていたため、真に受けてこれが伯父の戦争の正史であると喜んで買った。

 

 

当初は同書を読みながら、黄緑色のラインマーカーで、大事だと思うことろに線を引いていった。今もそのまま残っているが、そのうち線を引いていない所のほうが目立つようになり、もう線を引くのも付箋をつけるのもやめた。

 

サイパン島の戦いの詳細は、マリアナ沖海戦の後で記事にする予定のところ、ここしばらくは、これまで手記などで見て来た敵上陸作戦の前後の状況を確認する。伯父の連隊を乗せた最後の輸送船団が、満身創痍でサイパンに着いたのが6月7日。

 

 

何度か引用したので、ここでは出典を省くが、大本営陸軍部は「第四十三師団が着任すれば、敵を撃退するに必要な砲は揃っているので、サイパンは難攻不落とある」旨、海軍に主張していた。作戦を立て、命令を下せば仕事が終わる人たちなのだ。

 

現実には四十三師の第二次輸送は伯父の部隊、歩一一八などを乗せた陸軍輸送船が三隻とも敵潜の餌食となって一個連隊欠、兵器と食糧の大部が海没した。万全の条件を備えていないではないか。足りないのは兵員だけではなかった。同戦史叢書より。

 

 

守備部隊としては、当時の日本軍全般の対上陸戦闘の趨勢や、上級司令部の強力な指導、作戦準備日数の僅少等から、水際撃滅以外考える暇もなく、また縦深の陣地設備や後方山地帯における複郭陣地の構築を考えたとしても、手が回りかねる状況だった。

 

コガモ

 

 

思うように準備が進まなかった理由がたくさん書いてある。セメントや鉄筋などの築城資材の不足。これは敵襲で失っただけではなく、パラオ方面を優先したという軍部の判断もある。さらに補給は海軍の担当であり、海軍優先となって「不均衡」があったと陸軍書は書く。

 

軍需品の集結作業や、飛行場の設営作業に人員、機材を割かれ、陣地構築が遅れた。輸送船の遭難続きで、配置換えが多く時間・労力を浪費した。海岸付近の土質が砂と珊瑚中心で、掘りにくい。準備期間中、「比較的平和な生活をしていたので、在島部隊にもいきおい臨戦的心構えが欠けていた」。

 

 

上記の各要素は、個々人の回想にも出てきた通りであり、これで戦争に勝てるのなら苦労はない。上記青字引用にもあるように、後方の山地に縦深の陣地を構築できず、前後の連絡路もない。ちなみに、たぶん後方の山地とは、ガラパンの東方にあるタッポーチョ山や、チャランカノアの内陸側にあるヒナシス山などのことだろう。

 

人員を引っかき集めた第四十三師団は内地での訓練もできず、サイパン到着後に本土の教育総監部などから送られてきた派遣教官に、幹部が教育を受けていたが、これも終わらずに敵を迎える。軍需品も大半が埠頭附近に山積みのままだった。糧秣不足のためサトウキビ畑を芋畑に切り替え、「大体自給の見通しがついていた」。

 

 

最後に、これも引用文中にある「上級司令部による強力な指導の僅少」について。組織図どおりに書き上げると、上級の上のほうから連合艦隊(長、豊田副武大将)、サイパンの中部太平洋方面艦隊(長、南雲忠一中将)、陸軍第三十一軍(長、小畑英良中将)、そしてサイパンの陸戦の主力は第四十三師団(長、斎藤義次少将)。

 

繰り返すと第三十一軍の小畑司令官は、連合軍がビアク島に上陸した日、サイパンを離れパラオに向かい、敵上陸時には「ヤップ島視察中」だった。その留守中に敵上陸をみた日本軍は井桁参謀長が軍司令官の名で指揮し、実質的に、斎藤師団長が野戦軍司令官となる。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

我が国で一番小さいキツツキ、コゲラ  (2024年1月1日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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