雪の内に春は来にけり鶯の凍れる涙今やとくらむ  二条后

 

 

このブログでは伯父の戦争の流れを決めるにあたり、基本的には時系列に沿ってビアク島敵上陸、渾作戦、サイパン島敵上陸、「あ」号作戦発動、マリアナ沖海戦と進み、そのあとでサイパン上陸後のマリアナ諸島上の戦いで締めくくる予定。

 

このため、最近読んでいる資料に関する記事は、6月15日のサイパンへの敵上陸時点で、それぞれ筆をおいている(マウスを離している)。つまり、その後のマリアナ諸島における陸上戦の記事との間隔が大きくなってしまうことになった。マリアナ沖海戦の後で一工夫しないと、話が途切れてしまうな。

 

 

このやり方を前提にして、佐藤和正「玉砕の島」を読むが、戦車第九連隊の下田伍長の証言も、16日朝の検討開始前の時点で一旦停止し、前掲菅野書に戻った後、別の参考文献に移る。いざこれからという場面なのに申し訳ない。続きは遠い先。

 

敵軍上陸日の「六月十五日、この日は晴天だった」。7時15分に(日本時間の朝)、米艦隊が発した大型の上陸用舟艇約70隻、小型舟艇約100隻からなる第一波が、チャランカノアの海岸目指して殺到してきた。

 

 

下田伍長の中隊は、敵が西海岸に上陸してきた時、反対側の島東部にあるチャチャという地に在った。第三十一軍の小畑軍司令官はパラオ出張中で不在だったため、軍司令部で留守を預かっていた参謀長井桁少将が、軍司令官名で指揮することになった。

 

この時まず、戦車第九連隊は第一線を強化するため、第四中隊を西海岸方面に進出させた。ガラパンとチャランカノアの中間点にあるオレアイにおいて、海軍の守備隊とともに、敵の上陸隊を蹂躙し始めた。

 

 

下田氏の回想によると、この「殴り込み」により上陸した敵を水際に追い詰めたが、米軍の駆逐艦が駆け付け、艦砲射撃で支援を始めた。「戦車四中隊は、二両を残してすべて破壊され、歩兵は全滅した」。「お兄ちゃん」は、ここにいたのだろうか。

 

この日の夜までに米軍はニコ師団相当が上陸を果たし、陣地構築により縦深数百メートル、南北約一キロの海岸舗堡をチャランカノア周辺に造った。しかしこの日、米軍は戦車を揚陸できず、火力は貧弱で、要は海兵隊員だけが来たようなものだった。

 

 

 

タシギとイソシギ

 

 

火力の勝負に出たいところだが、そのために運んで来ようとした臼砲は、前回言及したとおりで、すべて海没している。一方、戦車連隊にはまだニコ中隊が残っている(下田伍長の第三と、もう一つは第五)。

 

戦車第九連隊長の五島正大佐は、この朝、「戦車のみ独立して挺身攻撃する」ことを進言した。しかしながら、上位部隊の第四十三師団は、参謀長の太田大佐が反対意見を述べ、集結が遅れている歩兵部隊を待ち、歩戦の同時攻撃をすべしと主張した。

 

 

戦車隊は砲撃も禁止されて、敵軍の空襲と艦砲射撃に阻まれて合流が遅れている歩兵部隊を待つ内に、夜になってしまった。戦車による夜襲は計画にも常識的にも無かった。目標を捉えにくいし、戦車という兵器ならではの迫力も敵兵に見せられない。逆に相手には、音と大きさで察知されやすい。

 

佐藤書によると、上陸した米軍は日本軍の戦車隊を恐れ、しかしそれが動かずに翌日を迎えたことに安堵し、なぜなのか訝りもしたらしい。下田伍長は「あのときやればよかったよかったんですよ。絶対に勝てたんです」と取材時もなお怒っている。

 

 

私の知己に元自の方々が何人かいて、その中の一人の人生訓によれば、やらなかったことへの後悔は、やってしまったことへの後悔よりも厳しい。やるかやらぬかの二者択一に悩むときは、行動を起こすのみである由。

 

やってしまったことに対する後悔は、すぐに生じ、解決や改善ができることも多い。例えば謝って赦してもらえる等々。しかし、やらなかったことへの後悔は、すでに今更どうにもならない段階になってから、遅れてやってくるだけに始末が悪い。

 

 

「あのとき」に対する下田伍長の憤懣は、上記の個人の胸中に生じる後悔とは別のもので、伍長一人でどうにかなるものではないのだが、15日の敵空襲と艦砲射撃でも幸い戦車は無傷だっただけに、さぞかし悔しかったに相違ない。

 

冒頭で前述したとおり、本手記からもこの時点でいったん離れる。この先は読むだに辛い戦車隊壊滅の経緯が描かれているが、先延ばしにして後から続きを書く。そのまま何もせぬままで後悔しないように。

 

 

(つづき)

 

 

 

近所の諏方神社で今年も初詣   (2024年1月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.