本日は明治神宮でみた小鳥。中央右にツグミ。

 

 

今回から菅野静子著「サイパン島の最期」の本文に入るが、その前に、いま読んでいる吉村昭著「陸奥爆沈」の一節を引く。先の戦争の教訓に関することだ。かつて彼は、あの戦争が「日本の土壌になにか肥沃にさせる養分をあたえた」と期待した。

 

しかし吉村は戦後、先の大戦に関する分析が進み、自身も執筆を通じ、「自分なりの努力をつづけてきたが、最近多分に悲観的になっている」と、仕事で柱島を訪問しようと誘われたときに書いている。日本の土壌は肥沃になっていなかった。

 

 

得難い機会をあたえられながら、思想らしきもののきざす機会はきわめて薄い。その最大の理由は、とかく過去を美化しがちな人間の本質的な性格にわざわいされているからで、あの戦争も郷愁に似たものとして回顧される傾きが強い。

 

私の書く小説も、このような戦争回顧の渦中に巻き込まれている節がある。それは読者の側の自由なのだろうが、書く側としては甚だ不本意である。私が戦争について書くことをためらうのは、戦争を美化してとらえる人々の存在がいとわしいからだ。意図したものを逆にとらえられるおそれが、私の気持ちを萎縮させてしまう。

 

私が柱島行きをためらったのは、その泊地の名称が江田島などと同じように、或る種の人々にとって郷愁の対象となっていることを知っているからであった。

 

 

昨年、江田島に行った際、時間に余裕があれば柱島にも行きたかったなと思った私には耳が痛い。吉村が「郷愁」や「回顧」という言葉を使っているのは、少年時代を戦争中に過ごした、戦争経験者の最後尾の年代だからだ。

 

そういう世代がほとんどいなくなりつつある現在は、別の表現が必要だと思う。例えば、娯楽であるとか。もはや義経や龍馬の時代と変わらないらしい。拙ブログにも、何を勘違いしたのか、ネット右翼やら艦コレやらが纏わりついては離れてゆく。

 

 

シメ。強面。

 

 

菅野静子は十代後半で戦争に巻き込まれた。玉音放送の十数年後に書かれた著書において、著者がどのような動機や感慨をもってこれを執筆したのか、これから読んで行こう。前半は家族の話、後半は兵隊の話が多い。殆どみな死んでいった。

 

本書の第一部「玉砕」は、「初空襲」という章から始まる。昭和十九年(1944年)2月24日、サイパン島ほかが被災したマリアナ空襲のことだ。このころ著者は、姉一家とともにガラパンに住んでいたらしい。それまでも散発的に空襲はあった。必ず晴れた日に敵機がくるので、朝起きると天気を確かめる習慣がついていた。

 

 

しかし、その日は夜中の二時ごろに空襲警報が鳴った。彼女は目が覚めたものの、眠たくて起き上がれない。姉に叱られた。前回の写真にいなかった姉だろう。すでに姉は二人の子に、避難の準備をさせている。なお、この姉の夫は在郷軍人として、サイパンで戦死した。

 

姉が二人の子供を連れて、引揚船サントス丸で去ってゆくのを、著者はサイパンで見送っている。著者は帰国後、海没したと思っていた姉との再会を果たすが、生活に困窮した姉は身を売り、そこを抜け出して闇屋になっていた。事情があって二人の子が行方不明になり、本書執筆の時点で姉はまだ我が子を探し回っている。

 

 

郷愁どころではない。姉にせかされて防空壕に移ろうとしたら、近くの垣根に迷彩姿の兵隊が、空に銃を向けている。「兵隊さん、何かあったの?」と訊いたところ、兵隊さんはびっくりして振り向き、「敵機だ。早く防空壕に逃げろ」と言った。

 

彼女は日本が負けるなどと考えたこともなく、これを聞いて血が熱くなった。いよいよ来たかと思ったが、夜が明けると味方の高射砲の音に続き、空一杯の敵機から爆音が轟いてきた。戦闘機が頭上を蔽い、翼に星の印が見えた。そして爆撃機の群れ。

 

 

「血潮のたぎるような敵愾心」を抱いた。もっとも彼女が潜んでいた防空壕は、幸い命中弾こそなかったものの、爆風だけで半分が潰れてしまった。姉と子供たちも無事で安心した。しかし後から入ってくるニュースによると被害は意外と大きい。

 

ガラパンの街は濛々たる黒煙に包まれ、火を吹き上げている。南部のアスリート飛行場がやられ、地上の友軍機が全滅した。いつもは授業の邪魔になるほど騒々しい日本軍機が、この日は一機も飛んでいない。チャランカノアにも空襲があった。

 

 

私はいつも勇ましい日本の兵隊さんばかりを見ていたし、また日本が負けるなんてことはあり得るはずがないと信じていたから、空襲なんかあったってちっとも恐れることはないと思っていたが、いま次々と伝わってくるみんなの話を聞いていると、敵の力の意外と大きいことが感じられて、これは大変なことになりそうだと、なにか空おそろしいような気さえした。

 

この日、敵機は爆弾を落とし終えて消え、それからしばらく空襲もなかった。だが人々の暮らしは変わった。住民は防空壕掘りや滑走路の設営などで必死に働き、兵隊の表情は緊張でこわばったままだった。そして、「二月の末だったか、海軍の司令部から、民間人の家族に対する引揚命令が出た」。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

水飲み場のシロハラ  (2023年12月8日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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