ホシガモ 12月の葛西海浜公園

 

 

本ブログでは作家を除き、女性が書いた本を読むのは、これが初めてではないかと思う。前回の手記「絶望の道」は、菅野静子著「サイパン島の最期」(国書同好会)の一部である。なお、菅野姓は昭和二十年(1945年)4月8日に結婚してからのものだ。

 

著者は本文中の大半において、旧姓の三浦静子の名で登場する。結婚相手は著者の軍事裁判の通訳だった。彼女はサイパンの軍隊で働いていたため、捕虜になり戦犯になったのがご縁。本日の記事は本文に入る前に、少し触れておきたいことがある。

 

 

ほんの数年前まで、主に例年8月に行われるマス・メディアの戦争特集などにおいて、証言者の多くは高齢の元軍人・軍属だった。その方々が減り、最近はその下の世代にあたる捕虜生活や抑留から、労苦を重ねて生還した人たちをよくみるようになった。

 

彼らの多くは、玉音放送の後になってからも厳しい人生が待ち受けていた。この書籍は国書同好会が三種類の叢書を出版した中の一つである、「南方捕虜叢書」の一冊。あとの二つは「戦犯叢書」と「シベリア抑留叢書」。

 

 

ハジロカイツブリ

 

 

職業作家であってもなくても、本を書く人は「まえがき」や「あとがき」の日付を選ぶことが少なくない。菅野静子は「勤労感謝の日」。辻政信「ガダルカナル」は、「南鮮死闘の放送を聞きつつ」。朝鮮戦争に血が騒ぎ、罰が当たったらしい。

 

著者略歴によると、三浦静子は大正十五年に山形県で誕生。まだ幼児だった昭和二年に「開拓移民を志した両親とともにテニアン島に渡る」。高等小学校卒業後、南洋貿易株式会社に就職し、夜間女子青年学校に学んだ。

 

 

昭和十七年に設営部隊に配属され、翌年に南興水産株式会社に「特別転属」される。本文中には、ほかの皆とともに「防空壕掘り」あるいは「滑走路づくり」の「勤労奉仕」をしていたとある。

 

家族と離れテニアンからサイパンに移った日付は不明だが、2月のマリアナ空襲はサイパンで被災している。そして6月に敵上陸を受けた。戦場で多くの兵隊から、「女であるということから、ひょっとしたら私だけでも生きて日本に帰れるかもしれないとでも思ったのでしょうか」、多くの兵士から家族への言伝を預かった。

 

 

しかし帰国後、無数の遺族に対し、その遺言を伝える術がない。思い切って雑誌に、サイパンの最期について、少しでも知りたい人はご連絡くださいという趣旨の投書をしたところ、次々に手紙が届き始めた。

 

手紙が150通ほどにまで達したころ、これに応ずる形で、雑誌に手記を投稿した。遺族に新たな悲しみを受けさせるなと夫が怒った。しかし反響は大きくなるばかりで、今度は単行本公刊の話になり、増え続ける手紙と出版社がようやく夫を説得した。

 

 

彼女自身も遺族だ。前回言及したように、「著者家族」という両親と5人の子が写っている写真が残っている。ただし文中に、6人兄弟と書いているので、もしかしたら嫁いでいたという姉がいなかったのかもしれない。

 

陸軍の戦車隊の伍長になっていた兄の慎一も写っている。この兄は後述するが、サイパンの水際で乗っていた戦車がやられて行方不明になった。彼女は捕虜になってから兄の戦車の在り処を知り、米兵にハンマーで蓋を開けさせた。


白骨の軍服に「三浦」と縫い付けてあった。兄は美人の妹が自慢で、部下に写真を見せて回っていたらしい。私も妹の写真を見たが、なるほどその気持ちもわかる。誰もがそうだとまでは言わないが、昔の家族はお互い仲が良かったと感じることが多い。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

トビ  (2023年12月4日撮影)

 

 

 

 

 

 

千葉の習志野原 第一空挺団の空挺館そば  1月20日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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