さざんか さざんか さいたみち

 

 

前座噺から始めます。大したことではありませんが、都内で久しぶりに霰(あられ)に叩かれました。外を歩いていたところ一天にわかに掻き曇り、時刻はまだ一五〇〇前後だったのに真っ暗になりました。そのあと小さな氷の粒々が落ちてきました。

 

上記の文章のうち、「前座噺、一天、掻き曇り」は私のPCの漢字転換候補に出てきません。昔の書物の転記をしていても、しょっちゅう同じことが起きます。どうにもなりませんが、古い言葉が消えてゆきます。ちなみに、「かんじ」で一番先に出て来る候補は莞爾。にっこりではなく、拙ブログの影響による石原のこと。

 

この日の霰は、少しばかり降り落ちただけで終わりました。しかし、ガザはそれどころではない。悲惨です。破壊者はソドムとゴモラのような目に遭いたいのか。正義と公道を行わざる者には、天より硫黄と火が降り注ぐであろう。

 

 

では前回の続き。ここで云う6月16日というのは、米軍がサイパンに上陸した昭和十九年(1944年)6月15日の夜が更け、日付が変わった未明の出来事である。つまり丸一日が経過したのではなく、上陸されてすぐのことだ。みな疲れ切っている。


引き続き青木隆氏著「サイパンの海蒼く」を、今回・次回にて読む。結論から申し上げると夜襲はあと一歩のところで力尽きた。更に17日夜の第二回の夜襲計画は、指揮者の戦死、兵員の激減と疲労などの理由により中止になった。第一回の夜襲で既に、攻撃中なのに戦場で寝込んだ兵まで出た。そしてそれ以後、事態は好転しなかった。

 

 

サイパンの守備隊は、よく働いた。6月15日の上陸作戦において、米軍の海兵隊では4名の大隊長が後送された。迫撃砲らしい。著者の「横一特」も司令以下、多くの将校が同日中に斃れ、兵員が半減した。では手記より、その経緯をみる。

 

唐島司令に架かってきた電話の要件は、当夜の夜襲の命令だった。司令は電話口で、「本隊総員きわめて士気旺盛、誓って任務を完遂いたします」と応じ、電話を切ると揃っていた将校や下士官らに、今夜二十一時より陸軍と協力し夜襲部隊を編成し、「敵を海中に追い落とすことに決した」と伝えた。そして横一特ならではの結語。

 

われわれは断と信念に生きてきた落下傘部隊である。メナド、クーパンにおいて得た名誉を絶対に汚すことのないようお願いする。

 

 

司令によると、友軍は二回にわたり上陸軍を撃退したが、敵軍の上陸用の戦車と舟艇に押され、昼ごろサイパン島の一角オレアイ海岸に橋頭保の構築をゆるした由。同じころ会合に呼び出されたらしい副官も戻ってきた。本隊は西海岸沿いにガラパンからオレアイ経由チャランカに南下し、陸軍と合流し夜襲部隊を構成する。

 

副官は最後に「まだ時間があるから、武装を解いてゆっくり休んでおれ」と言った。さっそく小隊付の下士官らが集まり、ウィスキーをラッパ吞みして廻している。飲めない連中には、原田兵曹が「かあちゃんのための取って置きの砂糖」を配った。

 

 

司令部から戦法が伝わって来た。この日、陸軍が多用しつつあるもので、「敵戦車に対しては、爆弾および小型爆雷をもってする肉薄攻撃が確実なり」。著者は「空の自爆体当たりとまったく同じ」と思った。「一人一台体当たり」。防弾マスクは置いてゆくことになった。

 

司令は祖国に向かっての黙祷を終えたのち、自ら先頭を切って洞窟を出た。本部小隊がそれに続く。著者の隊も中隊長を先頭に洞窟を出て進み、「日が西に傾いたころ、ようやく発動地点に到着することができた」。

 

 

かれらは、そこで友軍機を見た。敵機と交戦している。たった三機かと落胆する者もいれば、あれは偵察でこれから来るのだという者もいた。あれは艦戦機だから、艦隊近くに在りと言う者もいた。その三機はすぐに姿を消した。

 

ジャングルに整列した部隊は、伝統の白襷を右肩から左脇に懸け、合言葉は「海」(かい)と「陸」(りく)に決めた。空は暗黒だったが、敵の照明弾が三つ四つと上がり、鉄兜や刀、白だすきを光らせた。上陸地点当たりから、反射光を目指して火を吐きながら束になって飛んでくる弾雨が附近に落下した。

 

 

敵兵力は推定十万。こちらは二万五千。制空・制海権もなしでは、見つかったとて夜襲しか方法が無い。ガラパンは敵の銃砲弾で掘り返された道、死臭、地名も現在位置も判断できないほど変わり果てや街並み。やがて左上の高地に曳光弾が飛び、続いて艦砲射撃。わが陸軍も見つかったらしい。

 

他方このため、彼らは敵より先に、相手を見つけ得た。敵軍の照明弾の光を、米兵のヘルメットが反射している。著者の部隊は前方に約四十の擲弾筒を揃え、三回にわたり斉射した。すぐさま反撃が始まり、周囲の戦友が小銃を取り落として倒れ始めた。

 

 

ヤツデの花

 

 

この斬り込みは、敵第一線が逃げ出したところまではよかったが、海岸に出てしまい砂地で動きが悪くなり、また、深入りしすぎて他部隊との連絡も取れなくなった。そこに突然ラッパが鳴った。見ると自軍の大隊付下士官が道路で軍艦旗を振っている。

 

その左後方で日章旗を振っているのが、探しても見るからなかった我が陸軍だった。みな喜び勇んで走り出したものの、旗振りが見えているということは、もう夜が明けていた。環礁を取り巻く敵艦隊から榴散弾の集中攻撃を受けた。死傷者が続出する。

 

 

「敵戦車現る。肉薄攻撃用意!」。立ち上がって命令した小松小隊長が、さらに何かを言おうとしたとき、戦車砲の直撃を受け、上半身が飛散してしまった。戦車の轟音が近づいてくる。機銃の音と、タンストン、タンストンという戦車砲の音に、部隊は完全におさえつけられてしまっている。

 

眼前に現れたのはM三戦車だった。われわれは反射的に破甲爆雷をつかんで、蝗のように戦車へとびついていった。すさまじい破裂音。「やったぞ!」という狂喜の叫び。だが、何事ぞ。ちょっと射撃を止めただけで、敵戦車は再び走り出したではないか。しかも砲塔は転廻し、右を左を射撃し出した。

 

 

これに対しては、宮内兵曹が爆雷を二つ抱えて飛び込み、さすがの戦車も動きが止まり、燃え始めた。友軍機三機も現れた。もう一台、燃えた。しかし後方を遮断され、爆雷が尽き、戦車は次々と来る。この状況下で、「司令、一中隊長戦死」の報が伝わって来た。「仇討ちだ」の叫び声が上がる。

 

戦史叢書の情報のとおり、唐島司令は初回の夜襲で戦死した。信号兵の突撃ラッパが鳴り、「部隊はガムシャラに突っ込んで行った」。横一特は副官も失い、著者の上官の中隊長も、小隊長も、小隊付下士官も戦死してしまった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

人気のキツツキ、アカゲラ。お腹の羽が赤い。 (2023年12月1日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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