マリアナにはもう一度、慰霊のため渡航したいと思っている。特にサイパン。テニアンに行ったときは、もう伯父の資料も入手していたので、線香や御神酒もそろえてガイドさんも雇ったが、サイパンには観光旅行にしか行っていない。

 

サイパンでは少なくとも二回、観光地の名高いビーチがあるマニャガハ島に行った。サイパン島北西岸の沖に浮かんでいる小さな島で、シュノーケリング等のオプショナル・ツアーの定番。白黒模様のイカの群れが縦に並んで漂っていたのを覚えている。下の図の左上にある青丸地点。

 

 

 

このマニャガハ島を、サイパンの日本軍は「軍艦島」と名付けていた。長崎の軍艦島(正式名は端島)は形状が似ていてそう呼ばれているとの理解だが、マニャガハ島は本物の軍事要塞で、ガラパンの北に位置する前衛拠点。青丸印は泊地の出入口か。

 

前回のとおり昭和十九年(1944年)6月13日、青木隆氏著「サイパンの海蒼く」によれば、著者らの唐島部隊が急報を受けた敵艦隊(戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦)は、「悠々と島に接近し、砲撃隊形を取った」。「一四〇〇時、敵砲の第一弾は、軍艦島に向かって放たれた」。

 

 

これをきっかけに敵各艦からの砲撃が始まり、「サイパン全島は轟音と振動のるつぼの中」に置かれた。小隊付の下士官に集合命令が出た。敵上陸の気配濃厚につき、総員戦闘配置につけとの命令だった。

 

時刻の前後関係は分からないが、この6月13日は大本営もまだマリアナよりはパラオに来るだろうという観測のままでおり、同日、連合艦隊もその前提で、「あ号作戦決戦用意」を発令している。第一線の情報と判断は、どこで止まっていたのだろう。

 

 

 

 

洞窟入口で観戦中の井原兵曹より、「敵さん、マタンシャの海岸を片っ端から叩いているぞ」と報告があった。現在マタンサと呼ばれている地は、当時サン・ロケ地区ともいい、ガラパンから北東の海岸沿いにある(地図は次回にて)。

 

後日米軍が上陸したのはガラパンの南方なので、北方にある軍艦島やマタンシャへの艦砲射撃は全日本軍を壊滅させるべく、さらに、もしかしたら陽動の目的も兼ねて行われたものか。なおマタンシャの北に、バンザイクリフがある。

 

 

著者の壕に子供たちが逃げ込んできた。「敵の兵隊さん、来るかしら?」と怖がっている。其の洞窟は地震のように揺れ、壁の土砂が崩れ落ちて来る。どうしたものか、敵の艦砲射撃は駆逐艦が山を狙い、戦艦が海岸を撃った。

 

見張の伊藤兵曹によると、マタンシャの海岸を砲撃したのは戦艦の主砲で、しかも近距離からだった。「だけどあんなところを射つのに四十サンチを使うんだから、やはり持てる国は違うな」と、しきりに感心している。

 

 

米海軍のサイパン攻略作戦は、"Operation Foager”。略奪の意。身も蓋もない。当該サイトによれば、日本の機動部隊の動向を把握し、連続して行う予定だったグアム攻略を延期。その兵力をサイパン上陸部隊の強化に当て、艦隊は海上決戦に向かった。

 

 

 

一八〇〇ごろ砲撃は止んだ。小艦艇を島の周囲に残し、敵主力はいったん北に去った。日本艦隊が来たからか、と守備隊は一縷の望みを託したが、グアムから届いた報告によると、「敵輸送船九隻、十二ノットの速力をもって北上せるを確認せり」。

 

グアムの北には、サイパンがある。翌14日、サイパン各地の監視所から、敵輸送船発見の報告が殺到した。上記米海軍サイトに、この日の夜は海兵隊員に御馳走が出た。書き留められている日本のサイパン守備隊員の会話は、テニアンやグアムの日本軍内でも似たようなものが交わされたことだろう。

 

「面倒くせえなあ。上陸するなら、さっさと上陸して来りゃいいのに」

「だけど俺たちは得だぜ。これでテニアンにでも上陸されたら、いつ来るか、いつ来るかと神経衰弱になっちまうぜ。早く上陸された方がいっそ気が楽だ」

 

 

スプルーアンス部隊は、この日、輸送船との合流を終えたのみで、慎重を期したか、艦隊はまたも遠方に去った。著者は「敵ながら堂々たる艦列だった」と記している。このころサイパンとテニアンを取り巻いている敵艦隊の隻数について、民間人の証言を幾つか覚えている。

 

「大小約五百」。「四百まで数えて諦めた」。「敵の船で海が見えない」。戦争映画のCGはたいてい艦隊を上空から鳥瞰するような、絵になるアングルを選ぶ。でも島民は真横から、重なり合う大鑑を見ている。ろくに水平線も見えなかったらしい。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

日本の中心  (2023年11月21日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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