引き続き中山道の風景

 

 

前回の続きで、連合軍のサイパン上陸作戦の冒頭部分を陸軍の戦史叢書(6)で読む。サイパンには海軍の陸上部隊や、中部太平洋艦隊司令部があるが、それらの動向は海軍の戦史叢書で後日まとめて読むことにした。そのあと海戦に続くからだ。

 

昭和十九年(1944年)6月11日に始まったサイパンほかマリアナ諸島の主要な島々への敵空襲は翌12日も続いた。前日に大本営に入った情報が記されている。「マリアナに来襲した機動部隊は輸送船団を伴わない正規空母六隻、特設空母八隻程度」。

 

 

これは敵機動部隊の主力であり、輸送船団は目視で未発見であるにすぎないのだが、12日になっても大本営陸海軍部間の情勢検討において、前回のとおり「二日以上は策動しないだろうと、比較的軽く判断」し、渾作戦を続行する。

 

その渾作戦だが、6月に入って豪北の戦況が悪化し、ビアク島の飛行場が6月7日に占領され、8日の現地陸海軍による夜襲が失敗したとの報告があった。これを併せて下された判断は、「マリアナ方面の上陸はなく、他方面作戦の牽制であろう」。

 

 

このころになると、見てきた範囲の資料では、日本軍の基地から飛び発つ航空部隊の機数は数機、十数機という規模になっている。対する連合軍は、一日に延べ数百機も来る。まずは6月13日の敵空襲について戦史叢書より。

 

米機動部隊は、十三日も〇四〇〇ごろから〇七四〇ごろまでの間、二回にわたり、延べ二二〇機でサイパン島に来襲し、主として飛行場、港湾、工場、防衛陣地等を爆撃した。

 

 

この様子は後日、当時マリアナの陸上にいた軍人の回想でも確かめよう。この13日には、連合軍の攻撃が新たな段階に入った。艦砲射撃の始まり。狙いは建築物、航空基地および海岸付近の部隊だった。上記青字引用の続き。

 

そして〇九四五ごろからは、戦艦八隻、巡洋艦二隻、駆逐艦二二隻でサイパン島とテニアン島を包囲し、一六三〇まで約七時間にわたり、主として飛行場(飛行機)、海岸砲台、高射砲陣地、主用建築物(司令部等)を砲撃した。

 

このため市街地はほとんど消失し、高射砲部隊は一〇〇〇ごろ沈黙してしまった。人員資材の損害は比較的軽微であったが、海岸付近に配備された部隊の損害は少なくなかった。米艦は夜になっても擾乱射撃を続けた。

 

 

この二十四時間にわたる海空からの攻撃により、日本軍の陣地強化は継続不可能になった。サイパンの南雲忠一中部太平洋方面司令長官は、「敵は明日または明後日を期し当方面に上陸を企図しあり」(原文カタカナ)と連合艦隊司令長官に打電した。

 

テニアンの角田覚治第一航空艦隊司令長官も、一二〇〇、「敵はサイパン海岸の砲台を破壊し、駆逐艦でテニアン西方海面の掃海を始めたことから、マリアナ方面攻略の算は相当増大した」旨を報告した。

 

 

現地陸軍もようやく動き始め、第三十一軍は敵上陸の対応と司令部の警備のため部隊編成を行った。第四十三師団は、師団司令部とその直轄部隊を後退させた。この陸軍の後退は、避難する民間人の集団と同じ道を辿り、「東海岸方面に人の道が陸続として続いた」。敵の上陸は予測どおり、島の西海岸方面だった。

 

後に海軍の戦史叢書でも再確認するが、海軍航空戦力の被害が大きかった。マリアナ諸島の航空基地に約百五十機が待機中であったが、この三日間の敵銃砲撃により大部を失い、「第一機動艦隊とともに、あ号作戦の骨幹兵力として、作戦を担当しなければならない基地航空部隊も、ほとんど戦力を発揮できない状態であった」。

 

 

続いて中央。大本営は6月11日に上記の速報を受けたほか、翌12日、「アドミラルティ諸島方面に、航空母艦六隻、戦艦一〇隻、巡洋艦二五隻、駆逐艦一〇隻のほか輸送船九〇隻集中」という報告があった。

 

各輸送艦は四十~五十万トンで、九十隻もあれば三コ師団を運ぶことが出来ると補記されている。それでもまだ大本営陸海軍部はこの日、どの方面にこれらが来るのか決断できなかった。輸送船がマリアナ附近でまだ見つかっていないからだ。

 

 

それに加えて、かつてのトラック、マリアナ、パラオへの銃砲撃が上陸を伴わなかったという前例や、さらには連合軍の主たる進路がニューギニア北岸沿いであろうという従来からの判断にも影響を受けたようだと戦史叢書は分析している。

 

この天晴な楽観と比べ、深刻な情況に陥ったのは連合艦隊だった。ビアク島どころではなくなった。渾作戦は「一時中止」し、今後の西部ニューギニア方面の作戦は、南西方面艦隊司令長官に指揮させることにした。

 

 

 

 

 

同日一七二七、連合艦隊司令長官は、「あ」号作戦決戦用意を発令。濠北の「大和」「武蔵」の宇垣部隊にも、原隊復帰の命令が出た。これまで春亀方面に展開していた基地航空部隊の第二・第三攻撃集団を、西カロリンに転進、決戦配備に就かせた。

 

これは春亀方面を放棄したに等しく(戦史叢書も、渾作戦の再起は不可能と思われると書いている)、マリアナ諸島への加勢もしない。心は既に西カロリン(パラオ、ヤップ)で行われるであろう米機動部隊との決戦配備に移っている。

 

 

その昔、陸軍兵が頼もしく思ったのは大鑑巨砲の雄姿であり、あるいは空行く友軍機の日の丸だった。それらを見る機会もなくなった今、かつて私が読んだテニアンからの生還者の回想にある第一線の念願は、軍人民間を問わず、連合艦隊が来てこの敵船団を蹴散らしてくれることだった。

 

しかし6月14日になると、米艦隊の後続部隊が到着し、敵が更に強大になった。米軍はリーフの調査を開始し、各所に標識を立てた。日本軍はこれを知り、「将兵は来攻する敵の撃滅を期して満を持したが、期待したわが陸海軍の来援が全くないので、絶望感に陥るものもあった」。

 

 

この6月14日には、「サイパンの在郷軍人に防衛召集が下令されたほか、警防団、青年団等は、軍に協力して後方勤務に従事することになった」。これでも米軍の狙いはサイパンだけではない。間もなく始める予定のグアムの攻略も準備中。テニアン・ロタへの空襲も継続中。

 

同じく14日、東條参謀総長が「上奏し、御裁可を仰いだ」。内容は中部太平洋方面の米軍上陸の企図や第三十一軍の現状についての報告、そして渾作戦の中止、春亀方面も防備強化などの方針決定。

 

米軍の企図に関しては、この上奏においても、「カロリン方面攻略の可能性が強い」とした。困ったときの現人神頼みも、翌日の上陸で手遅れと知る。東條内閣退陣への道は、このときから逆戻りができなくなったのだと思う。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

和宮もここを通ったとか。  (2023年11月19日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

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