このカニさんたちも今ごろは冬眠中。

 

 

前回の続き。次回からは陸軍に移る。本ブログは現時点、昭和十九年(1944年)6月上旬の米軍サイパン島上陸の直前まで来ている。この時期、日本海軍の主要艦船は、大半が「あ号作戦」に備えてタウイタウイに集結していた。

 

例外が第二艦隊(長、栗田中将)の第一戦隊(長、宇垣中将)で、渾作戦の主力として豪北方面にある。「大和」「武蔵」を引き連れていた。今回は「戦藻録」を読む。以下引用は、適宜、現代仮名遣いに改める。

 

 

私の蔵書「戦藻録」は昭和四十三年発行の単行本で、裏表紙に「明治百年史叢書」という銘がある。人口が一億を突破した翌々年。ようやく本当の「進め一億」の高度経済成長期。物質文明は花開いた。そして今の私は昔の本に載っている、戦争で死んでいった若者の写真ばかり見ている。「丸」より拝借。

 

 

 

閑話休題。6月11日、日曜日。晴スコール一回。第一戦隊がセレベス海を横断し、三角地帯に出て南下中、宇垣司令官の下に急報が届いた。「メジュロより行衛知れざりし敵機動部隊、東方索敵機の増強云々中、マリアナ方面に出現す」。

 

千早大尉が発見したメジュロ環礁の敵機動部隊は、やがて忽然と姿を消し、大尉の命日となるこの日に、マリアナ方面に出現した。どうやら宇垣中将が図ったビアク方面への誘出は空振りに終わった模様。

 

 

この報告の概要は先述の戦史叢書と同様で、6日10時グアム東方にまず水上部隊、次いで機動部隊を哨戒機が発見、報告した。「敵はロタ、サイパン、テニアン、大宮島を連続空襲し、八〇浬まで接近せり」。

 

宇垣司令官によると、連合艦隊の司令部はこの日、せっかく渾作戦のため進出せしめた第一航空艦隊の第二攻撃集団を、テニアンに復帰させたらしい。往復しただけで働いていない。「わが渾作戦の実施、これがため一層の困難性を加えたりと認む」。

 

 

翌12日、宇垣艦隊はハルマヘラ島の南西にあるバチャン泊地に投錨した。「青葉」と「鬼怒」が見えた。なかなか良い泊地で、まだ敵機にも見つかっていないらしい。同期の左近允前指揮官とも会えて、「打ち解けたる話、級友間に尽きず」。

 

渾作戦の準備を進めているが、他方でマリアナの敵空襲は続いており、日本軍は敵の全容の把握もできていない。敵の意図が、マリアナ攻略にあるのか、それとも単なる機動に過ぎないのか、まだ連合艦隊も決め切れていない。この時点では渾作戦決行。

 

 

晩秋に渡り来るツグミ。瞳がきれい。

 

 

翌13日、これまでの彩雲の航空写真および目視の結果を総合し、敵機動部隊は四群、航空母艦は計十三隻という報告が司令部から届いた。「大兵力と申すべく何処に指向するや、いよいよ決戦期を覚ゆ」。

 

一方で、盛んにGFから索敵の命令が出ていることから、宇垣中将は「策敵機も殆ど無きに到れるか」と危機感を持った。追加でサイパンの中部太平洋方面艦隊(長、南雲中将)から、「敵は我が砲台および海岸陣地を砲撃し、駆逐艦五隻を以て泊地掃海中」という報が届いた。

 

 

掃海が始まっているのに索敵に焦っているGF司令部に対し、宇垣司令官は手厳しい。「従来通りの癌疾をいかんなく発揮して全般指揮を不可ならしむ」。脱線するがこの当時、参謀長の草加龍之介と前参謀長の宇垣纒は仲が宜しくなかったらしい。

 

亀井宏著「ミッドウェー海戦」の冒頭に、亀井さんが元軍人に取材して回った結果概要が面談順に載っており、筆頭が草加龍之介氏。長いので一か所だけ触れると、宇垣の最期を聞いて、「それまでの悪感情が消え去った」と語っている。

 

 

第一段作戦のときは草加が南雲希望部隊の参謀長で、太平洋から印度洋まで駆けまわり、宇垣は連合艦隊の参謀長で柱島にいた。後方で文句ばかり言っていないで前線を見にきたらどうかと草加が宇垣に言ったところ、本当に飛行機で飛んできたらしい。

 

渾作戦のころ、今度は宇垣が第一線にいて、草加が連合艦隊参謀長になっている。宇垣さんも誰の顔が思い浮かんだか知らないが、司令部には頼れないと判断したらしく「渾作戦どころの騒ぎに非ずと為し」、渾作戦の諸準備を停止した。

 

 

事前の長官命令によれば、「あ」号作戦は「用意」の段階であり、特命が無ければ渾作戦を続行せよというものだった。しかし宇垣司令官は、「かかる場合は情況を判断して、独断増援戦力を率い出撃北上の腹を決めたり」。

 

独断専行といえば日本海海戦の上村彦之丞と佐藤鉄太郎の第二艦隊のそれが名高い。これについては、若いころ読んだ司馬遼太郎「坂の上の雲」と吉村昭「海の史劇」の解釈が異なり、どちらも興味深いので両方受け止めたままになっている。詳細略。

 

 

宇垣司令官は軍艦旗を降下させた。その直後に「『あ号作戦決戦用意』の緊急電に接し直ちに出撃準備を下令す」と書いている。さらに約十五分後、「渾作戦を中止す。機動部隊よりの増援兵力は原隊に復帰すべし」との追加命令が来た。

 

この電命により、「万事を解決。独断専行を行わずして済めり」。いや、少なくとも胸の内では独断まで、もうやったのではないかと思うのだが、ともあれこれで大手を振って原隊に復帰できる。現地に残る部隊への引継ぎに入った。

 

 

渾部隊の指揮官は、再び左近允少将となった。戦史叢書によると、更に渾部隊の上位部隊は、連合艦隊から南西方面艦隊に変更になった。GFは一気に引き揚げたのだ。さすがの宇垣纒も、「陸軍側は大いに失望したることと想察するなり」と書き添えた。

 

機動部隊との合流予定点に、決戦予定日の6月19日までにたどり着くべく、二十ノットで航海した。6月14日、サイパンからの報告によると、敵は艦砲射撃の下、「高速大発を卸しリーフ及び陸上の強行偵察」そして「サイパン水道の掃海」を実施した。

 

 

このサイパン上陸に合わせ、米軍は大陸中国より、B29とB24を発進させて、北九州を襲った。その速報も宇垣司令官に届いている。これが日本軍が見たB29の初登場だった。マリアナの維持と「あ」号作戦の重要性が高まった。

 

6月15日にサイパンへの上陸が始まり、「あ」号作戦の決戦発動が下令された。宇垣艦隊はまだ本隊に合流できずにいたが、ようやく翌16日、「一六〇〇機動部隊を左正横に発見、無事合同するを得たり」。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

今年の東京は猛暑からいきなり晩秋のようだったせいか、紅葉も短かったです。

(2023年11月24日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.