今回・次回はマリアナ諸島への敵上陸直前までの海軍の話題。次々回より陸軍。その次に海軍に戻ってきてマリアナ沖海戦。その海戦の間も陸軍は、海軍の陸上部隊と共にサイパンの陸戦を継続中であるが、海戦の間いったん島を離れる。

 

昭和十八年(1944年)6月中旬、日本軍は大きく混乱した。11日に敵機動部隊によるマリアナ諸島への空襲と艦砲射撃が始まり、13日に連合艦隊司令長官が「あ」号作戦決戦用意および渾作戦の中止を発令。15日にサイパン島への敵上陸が始まる。

 

 

この時期、連合艦隊の司令部は旗艦「大淀」に在り、柱島に在泊中。前掲の手記、中島親孝氏著「連合艦隊と中部太平洋作戦」に、「大淀」が旗艦に選ばれた理由が記されている。同艦は軽巡洋艦であるが、特別に「潜水戦隊旗艦」として設計された由。

 

特徴として航続力が大きく、通信設備も整備されている。また、艦の後部には大砲がなく、その代りに「高速水上偵察機」(未だ登場していない)を六機格納できる大規模な格納庫および長大なカタパルトが備えてある。

 

 

しかし現実には、当時の戦局において潜水戦隊旗艦の必要がなく、肝心の高速水上偵察機がまだ完成するに至っていない。こうして「大淀」は連合艦隊の旗艦に選ばれ、格納庫を三段に仕切り直し、作戦室、事務室、寝室等を設け、無線施設を改良した。

 

以上の応急工事を横須賀で行い、5月1日に木更津沖の浮標に係留して、5月3日、豊田新長官が親補された。その後、「あ」号作戦指導のため、5月23日に東京湾から柱島に移動した。この地は真珠湾から「トラトラトラ」が届いた実績がある。なお先の話だが、このあと9月に連合艦隊司令部は陸に上がった。

 

 

 

 

次に艦隊の主力であるが、第二艦隊の第一戦隊主力は次回に取り上げる予定で、宇垣司令官の下、渾作戦に従事中。「長門」ほか残部は空母基幹の第三艦隊などとともにタウイタウイに集結している。敵潜の邪魔と無風のため、なかなか訓練が出来なくて困っていた。そのままマリアナ沖海戦に突入することになる。

 

先遣部隊(潜水艦)は、ビスマルク諸島、マーシャル群島、ニューギニア方面など広域に配置されていた。補給部隊は空襲を避けて第一がダバオ、第二はタウイタウイに在ったが、第二は主力艦隊の移動とともに、ギマラス泊地(比国の中部、セブ島の西方)に移った。

 

 

第一航空艦隊の航空部隊は、継続中の渾作戦に大きく割かれ、第一攻撃集団はパラオに展開し、第二および第三は濠北方面に展開している。つまり、司令部のあるマリアナから離れていた。しかもパラオは連日の敵大型機空襲を受けていた。

 

さて、戦史叢書によると、6月11日の敵機動部隊のマリアナ襲撃について、連合艦隊は「攻略のための来襲と判断したようである」。すなわち上陸作戦が行われるであろうと見た。これに対し大本営は、「単なる機動空襲であると判断していた」。

 

 

つまり、大本営の判断によれば、最近のトラック、マリアナ、パラオと同様、空襲と艦砲射撃であり海兵隊は来ない。海兵隊を乗せた輸送船団は、12日にアドミラルティで発見されたのだが、大本営はなぜ何を迷っていたのだろう? 戦史叢書より。

 

この両者の相違は、十二日のラバウルの零戦による偵察でアドミラルチーに大輸送船団が確認されたことも関連し、大本営が十四日までその判断に迷っていたのに対し、連合艦隊司令部は十三日にはマリアナ来攻を確信するに至った。

 

 

6月13日に連合艦隊司令部が、マリアナ来訪を確信するに至ったのは、この日、米艦隊がサイパン島に加えテニアン島への砲撃も開始したうえ、「駆逐艦による掃海を開始するに及んだ」からだ。上陸準備が始まった。

 

これは同日、「あ」号作戦決戦用意・渾作戦中止の発令の契機になった。しかしその続きに書かれている航空兵力の状況は厳しい。このころすでに基地航空部隊の消耗が激しく、「わが機動部隊の決戦に協同できる状況にはなかった」。大構想の核心部分が既に欠けていた。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

イナゴ(中央やや下)。蝗害はイナゴの仕業ではなく、トノサマバッタの仲間(亜科)によるものだ。               

(2023年11月24日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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