奄美諸島の話題から、マリアナ諸島の戦闘に戻る。伯父の戦争も最終局面を迎えつつある。今回は準備運動のような内容。拙ブログでは「マリアナの戦い」という言葉に、主として二つの戦闘を含めている。

 

その一つがサイパン、グアム、テニアン各島への米軍の上陸作戦および島上の戦闘。もう一つが渾作戦につづくマリアナ沖海戦。前者は主に陸軍の戦史叢書が詳しく、後者は海軍。このため資料を取り換えながら進む。同時並行だから忙しい。

 

 

マリアナの戦いは、サイパンへの敵上陸で始まり、陸戦中に海戦が起き、そのあとで各島の攻略が終わる。海戦について興味深いのは、日本側がマリアナ沖海戦と呼ぶのに対し、英語ではフィリピン海海戦となっている。

 

このとき日本海軍は比国から出撃し、米軍はマリアナ諸島方面から出発しているのだが、名称は反対。おそらく戦略目的の違いで、日本軍はマリアナの線の固守、米軍はその先のフィリピンの奪回を、それぞれ目指していたからではなかろうか。

 

 

ところで初夏のころから、なぜか本ブログのアクセス数が倍増している。初夏に話題にしていたのは海軍乙事件と渾作戦。個人的には比較的、地味な話題だと思うのだが何が起きているのやら。「いいね」をきちんとお返しできず、申し訳がない。

 

ともあれ最近読み始めていただいた方もみえるかと思い、繰り返しになるが、このブログを書き始めた経緯を今一度、ご紹介申し上げる。伯父(父の兄)は陸軍歩兵で、テニアンという島で戦死したと子供のころ祖父母や両親から聞かされていた。

 

 

祖父は三男で本家から独立開業したため、いま私が墓参りをしている寺本家代々の墓は、祖母が病気で他界したときに祖父が建て、それまでは同じ寺に行政が設けたという戦没者墓地の一角に伯父の墓だけがあった。父によると骨壺には石ころ一つだけ。

 

この実家の口碑しか情報が無い状態で、つい6年ほど前まで、他には何も知らずにいた。祖父母の実家も、祖父と伯父が働いていた木工場も、静岡の空襲で全焼しているため、戦中戦後の物は何も残っていない。伯父の写真などの遺留品も皆無。

 

 

6年ほど前、実家に司法書士事務所から相続に関する手紙が来た。大した物件でもないし、相続権者も多いのですぐに権利放棄したのだが、それよりも、封筒の中に相続権者を示す家系図が入っており、伯父や私の名も含まれている。

 

司法書士が伯父の名を知ったということは、無いと思い込んでいた昔の戸籍が残っているはずだと思った。戸籍がつながっている母に頼んで調べたところ、市役所に伯父の世代の戸籍が残っていた。「昭和十九年九月三十日、マリヤナ島にて戦死」。

 

 

次は陸軍関係の資料を探した。なぜか海軍は厚生労働省、陸軍は各都道府県の所管になっている。これは戸籍より更に難しいかと思いつつ、静岡県庁に電話したところ、氏名と生年月日だけで即答があり、「登録があります」と電話口で教えてもらった。幸先は良かった。それに県庁のご対応も迅速丁寧であった。

 

所要の手続きをし、軍歴証明書ほか何枚かの公文書や参考情報の写しが届いた。軍歴証明書によれば、テニアン島で戦死となっている。それまで知らずにいたのだが、これは伯父の二度目の出征であり、その前に大陸中国に三年余り現役で出征していた。

 

 

マリアナの伯父は、歩兵第百十八連隊(静岡)の第三大隊に所属していた。しかし、それ以上の詳しい情報が無い。今なお無い。もしも伯父が生還していたら、父ではなく伯父が寺本家を継いでいたはずなので、私は生まれていない。親族の礼儀として、できるだけ詳しく調べようと決めた。

 

さっそくテニアン島に慰霊に参り、その前後にこのブログも始め、情報収集にいそしんできたが、いまだに戦死した日も、場所も、死因も不明のままだ。確率の高い候補が三つもある。

 

 

① 伯父の部隊を乗せた輸送船が雷撃で沈没しているため、マリアナ到着前に海没。

② 部隊の生存者はサイパンに揚陸され、連隊残部はサイパンで全滅している。

③ 他方で県庁の資料では、部隊(歩一一八)の第三大隊のみテニアンに配置されている。軍歴証明書によれば、伯父は第三大隊の兵長だった。

 

 

キビタキのオス

 

 

上記③は、別途ネットで偶然見つけた海軍関係の書類にも、歩一一八の第三大隊がテニアンに配置されていたことになっているので、記録上は間違いなさそうだ。ただし配置計画と、実際に行われた配置が異なる可能性はある。大混乱だったのだから。

 

また、②の可能性も残る。生存者は戦闘不能の消耗度だったと戦史叢書にある。伯父も戦傷病で、サイパンに留まっていたかもしれない。さらに、単純に人数割合からすると、①の確率が最も高い(つまり統計上の犠牲者数が一番多い)。

 

日付については、県庁の陸軍資料も、戸籍も、墓石の死亡日も一致しており、昭和十九年九月三十日。この日は大宮島(グアム)とテニアン島の日本軍玉砕を告げる大本営発表があった。確かに戦死するとしたら、この日までの何時かでないと軍が困る。

 

 

とはいえ、テニアンの戦いで米軍が占領宣言を出したのは、8月の初旬であり、現実にはその前にはもう殆どの陸兵は斃れている。日付も不明のままだ。テニアンから生還した方々の著書は見つけるたびに買うが、伯父に関連する情報は今のところない。

 

遺骨も土壌によっては、長い年月が経ち、土に還っているかもしれない。マリアナ海溝に沈んでいたらお手上げだ。エベレストの高さより深い。世界一深い。むしろ遺品のほうに望みがある。名前入りの飯盒とか、日の丸の寄せ書きとか...。

 

 

伯父のように実質行方不明の元軍人や、私のように途方にくれている親族等は、日本中、世界中に無数にいる。だがこれは、他にもいるから諦めるというような話ではない。たぶん書くことができる限り、書き続けることになる。

 

それではマリアナの戦いの記事を終えたらどうするか。まだ決めていないが、おそらくマリアナと、別の郷土部隊(歩二三〇)が進出したガダルカナルについては、このまま去ることはない。あとは時系列で比国や沖縄まで進めるか否か。伯父の一回目の出征はどうしよう。気が遠くなる。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

秋のイトトンボ  (2023年11月4日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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