今年は猛暑のせいか、拙宅では夕顔の開花が遅かったです。

 

 

渾作戦を主題とする記事も残り少なくなってきた。今回は主に宇垣纒「戦藻録」を参照しつつ第三次の渾作戦の経過をみて、次回はビアク島上の陸戦について「丸」別冊の手記を読む。その先は戦史叢書(12)のマリアナ沖海戦に戻る。

 

状況を再確認すると、まず淵田美津雄・奥宮正武共著「機動艦隊」によれば、敵機動部隊主力が昭和十九年(1944年)5月30日に、メジュロ在泊のところを千早武彦大尉の偵察機が航空写真でとらえた。

 

 

千早機はトラック発、ナウル経由、メジュロ上空で写真撮影のあと、燃料切れ寸前でトラックに直帰し報告した。ちなみに往路のナウルでは、置き去りにされていた搭乗員らが、大尉に抱き着いて泣いたそうだ。

 

同書によると6月5日にメジュロ在泊を再度確認したのも、6月9日に米艦隊が消え失せたのをみたのも千早大尉。翌10日夜半、小沢中将の進言もあり、豊田長官は「あ号作戦決戦準備」を発令した。現代仮名遣いにて、命令文を転載する。

 

 

GF電令作第一二七号

一 渾部隊に第一戦隊(大和、武蔵)、第二水雷船隊(能代、駆逐艦二隻)を編入、同部隊指揮官を第一艦隊司令官とす。

 

二 渾部隊は左に依り渾作戦を続行すべし。

 (イ) ビアク島方面の敵増援兵力、敵機動部隊の撃滅およびビアク島、アウイ島の敵上陸部隊の砲撃撃滅

 (ロ) 好機第二機動旅団をビアク島に輸送、あ号作戦決行用意の令あるも、特例なければ渾作戦を続行、敵情に応じ敵機動部隊を決戦場に誘致する如く行動すべし。

 

 

この命令により、渾作戦の司令官が左近允少将から宇垣中将に交代した。上記(ロ)の経緯については「戦藻録」に詳しい。なお、共著者は「この作戦に大和、武蔵の二隻の巨艦を使用したのは、砲撃の効果もさることながら、あくまでも敵機動部隊を誘出しようという苦肉の策であったことは言うまでもない」と追記している。

 

では「戦藻録」の続きを、6月9日から読もう。この日、昼間の宇垣中将は長閑であった。映画を見て出猟し鳩六羽を撃ち落した。しかし前夜、ビアク沖海戦の報が届いている。左近允部隊は危機を脱しハルマヘラに戻ったが、宇垣中将はこう書いている。

 

 

本朝、朝食時、余はビアク島は最早思い切るべし。強行せんとせば凡て損害のみ。陸軍側強いて増援を防するならば、マノクワリより夜間舟艇機動に委するほか無し。陸兵を送りたりとて、傘が無ければ結局は駄目なり。それよりも亀の首と頭をしっかりとかたむべし。而して為し得る限りの飛行機を基地に集中するほか策無しと認む。

 

メジロ

 

 

本人も言い出した一人である強硬策は、奏功しないばかりか消耗を増やすのみとなったとみて、見解を覆している。舟艇機動については、渾作戦の立案当初に陸軍が主張していたものだ。

 

ビアク島とアウイ島(リンドバーグがいた)は諦め、西部ニューギニアの守備に徹する方針に切り替えるべし。ただし、この案は「傘」(上空の援護)がなければ、結局は無駄なのだという。

 

「戦藻録」にはこの前後、航空機の増派がさっぱり届かないことに苛立ちを隠せない記述が出て来る。他方、敵は既に「B大型」機による小型爆弾でパラオのペリリュー基地を攻撃し始めている。劣勢は明白であった。

 

 

この日は上記のとおり、千早機より敵機動部隊の姿をメジュロに認めずという報告が届いた。宇垣司令官は「いずれに向かえるや。行くところを迷わず、西進して『あ』号作戦の網にかかれと忠告するなり」と書いた。この箇所は児島襄「太平洋戦争」に引用され、結果的に、宇垣の忠告は聞き入れられなかったと書き添えてある。

 

そして翌10日、上掲のごとく「急転直下」に、「あ号作戦決戦準備」の命令が出た。本人は「作戦計画の批判以外に用事無かりしこの身が、この困難を予期すべき作戦の指揮官たらんとは思わざりき」と驚いたが、「必成を期するの腹を定めたり」。

 

 

出撃の準備が始まった。最初は給油。「大和」には「利根」を、「武蔵」には「筑摩」を横付けして「例外の油を受けたり」。二水戦ほかの各級指揮官と打合せを行い、「大鳳」その他を訪問して各長官に別れを告げる。同日、タウイタウイの礁外に出た。

 

翌11日の移動中に、敵機動部隊がマリアナ方面に出現したという報を受けた。ロタ、サイパン、テニアン、大宮島(グアム)を連続空襲し、敵艦隊は各島に接近してきた。味方がその全貌が把握できたのは翌12日で、「大兵力」であった。

 

 

最初のうち宇垣中将は、この敵主力が来るべき決戦の地を、どこに定めるのか悩んだ。マリアナはトラックのように通過するのか、それとも攻略してくるか。サイパンから速報が来て、敵は艦砲射撃および泊地掃海を始めた由。これで決断に至った。

 

「敵襲の掃海は上陸を意味するところ決戦となるべく、渾作戦どころの騒ぎに非ずとなし」た。大発の準備等の作業は停止。事前の命令によれば、特令なければ渾作戦継続であるが、「情況を判断して独断、増援兵力を率い、出撃北上の腹を決めたり」。「大和」「武蔵」は濠北に戦機なく引き返す。

 

 

わずか四日間の渾部隊指揮官であった。とはいえ、すぐさま去るわけにはいかない。部下に状況を説明したり、大発その他を左近允少将に返したりと忙しい。軍艦旗を降ろした直後に、「あ号作戦決戦用意」の緊急電が来た。

 

これを受けて、第一戦隊ほか増援部隊に出撃準備を下令した。幸い約十五分後に「渾作戦を中止す。機動部隊よりの増援兵力は原隊に復帰すべし」との電令を受け、「万事を解決、独断専行を行わずして済めり」となった。この先はマリアナ沖海戦の段階に移行する。拙ブログはいったん「戦藻録」を離れ、ビアク島の陸上戦に戻る。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

左からダイサギ、チュウサギ、コサギ  (2023年9月9日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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