今月からシルバー・ボランティアの仕事に就くことになりました。主な役割は学童の通学案内(緑のおじさん)。ただいま準備中です。歳も歳だし、これまでの経済活動中心から、社会活動に移行します。世の中にお返し。

 

 

 

今回は陸軍の戦史叢書(6)「中部太平洋戦争陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで」も併せて参照する。これは「あ」号作戦に関する限り、海軍の戦史叢書より詳しいかもしれない。渾作戦の中止により、ビアク支隊は全滅した。

 

敵ビアク上陸の少し前、昭和十九年(1944年)5月22日にサイパンの第三十一軍が発令した備作名甲第五十一号の要旨が記載されている。「軍当面における敵の攻略目標をパラオ地区及びメレヨンと判断す」。だが敵はカロリンではなくサイパンに来た。

 

 

このころの陸軍は豪北方面において、絶対国防圏を定めた前年9月30日の陸海軍中央協定に基づき「三号作戦」を継続中だった。さればビアク島は絶対確保のはずだ。少なくとも現地の第二方面軍、第二軍の任務はそうなっている。大命である。

 

5月29日に渾作戦が発令され、直後に始まった南洋群島の偵察において、メジュロで発見された敵艦隊の構成が載っている。偵察機はトラック基地から飛んだ。5月30日、正規空母5隻、特設空母2隻が在泊。また既に空母2隻ほかの機動部隊が西進中。

 

 

加えて少し前まで日本軍の要地だったフィンシュハーフェン、クェゼリン、アドミラルティに多数の輸送船や航空機が集まっている。これを受けて海軍が出した観測は既述のとおり、6月4~6日ごろ、「第一決戦方面」(パラオ南方海面)に敵が突入してくるというものだった。

 

これに沿って5月31日、連合艦隊司令長官はテニアンの第一航空艦隊に対し、「パラオ方面海域における『あ』号作戦決戦配備」を命じた。繰り返すと亀方面も、この決戦における基地航空部隊の拠点とする算段だった。

 

 

第一航空艦隊の角田司令部はこれに対し、「米機動部隊はビアク寄りに進出する算が大きい」と意見し、日本軍では「全般的に決戦場の予想は次第に南下の傾向を示した」。前提として、ここまでビアク島の日本軍が善戦中という情勢がある。

 

実際、現地陸軍は第三十五師団の一コ大隊を、ビアクに増援する作戦を成功させた。他方、「上陸した米軍は海岸後方の台上に進出」した。早くも飛行場を概成し、敵機が飛び始めたと前出の個人回想記にもある。守備隊は水と糧秣が欠乏し始めた。

 

 

ダバオに集結した渾部隊は、六月二日十七時、海上機動第二旅団の第一梯団を乗せ、「勇躍ダバオを出撃して壮途についたが、同日夜早くも連合軍機に発見され、翌三日にはダバオ南東三三〇浬(六一〇粁)附近でB-24二機の接触を受けた」。

 

海軍の戦史叢書(12)によると、この接触記録に関する渾部隊の報告記録は無い。誰が報告したのか分からない。この件は留守番部隊の一員として後方タウイタウイに在る宇垣纒司令官の「戦藻録」に記載がある。現代仮名遣いにて引用する。

 

 

六月三日 土曜日 半晴

(第一段落省略)

 

昨日警戒隊、輸送本隊、護衛隊の順序にダバオを出航せる渾部隊は、本日正午ごろダバオの南東三三〇浬に於いて敵B24二機の接触する所となり、敵機はRを連送せり。我が企図は5S扶桑の当地出発後、敵潜により諜知せられたる模様なりしが、ここに到り隠密行動不可となれり。

 

 

私は軍事用語の辞典も持たずに、この饒舌なブログを書いていることもあって、Rの連送の意味が分からない。状況からすれば、日本艦隊の位置と進行方向を伝えるだけなら、追いかけながら一字の連打で間に合いそうだ。

 

宇垣司令官は、例えば悪天候続きなどで敵機に発見されずに、ビアク島までたどり着く幸運を祈っていたのかもしれないが見つかった。しかし、まだ3日午後4時ごろの時点では連合艦隊司令部は渾作戦を続行すべく、角田部隊に索敵強化を発令している。

 

 

 

秋の花 左はキクイモ 右はタマスダレ いずれも外来種

 

 

なお、前掲「丸」収録の手記、竹下高見氏著「ビアク救援『渾作戦』始末記」によると、接触を受けた場所はハルマヘラの北にあるモロタイ島北方(揚陸地まであと約1,000km)で45分間の接触中、「水上部隊発見」と報告したらしい敵機の無線を傍受した。

 

その後、日本海軍内で事態が急変する。夜になり、戦史叢書によると「状況を検討の結果」、渾作戦を一時中止することになった。命令電文が残っている。現代仮名遣いで引用する。

 

 

連合艦隊電令作第一一五号 (二日二〇二五)

 渾作戦を一時中止す。各隊左により行動せよ。

一  五戦隊および間接護衛隊は原隊に復帰せよ

二  輸送隊(二七駆逐隊を加う)はソロンに入泊、機を見て渾作戦を実施せよ。

 

 

上記の五戦隊とは、警備隊の主力で宇垣日誌にある「5S」、第五戦隊のことだ。輸送態と一部駆逐艦をソロンに残し、守備隊はタウイタウイに戻れということなのだが、戦史叢書はその判断の根拠が敵機の接触のみならず、同日「敵有力部隊がニューギニア北西海面に行動中」という通信事情が影響していると考察している。

 

「眞田日誌」によると眞田参謀本部作戦部長が軍令部から受けた説明によれば、当日の接触なら決行するが、前日は困るというものだったらしい。B-24 の信号を受けて、連合軍が揚陸を妨害に来るということなのだろう。

 

 

あくまで「一時中止」ではあるが、当初規模兵力での強行は諦め、第二次渾作戦は駆逐艦のみの小規模艦隊で行われた。また、このあとでタウイタウイに戻った「扶桑」ほかは、連合艦隊の命令によりパラオへの牽制部隊の任務を命じられる。

 

連合艦隊司令部が、警戒隊と間接護衛隊を呼び戻したのは、敵機動部隊の集結・西進の情報を踏まえ、一部の戦力を渾部隊から吸収してまで、心はパラオでの決戦に向かったのだろうと思う。この点については、次回「戦藻録」の見解を聴く。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

和名は白銀芦(しろがねよし)、英名はパンパスグラスと申します。南米産。

(2023年10月11日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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