青梅

 

 

宇垣纒「戦藻録」の昭和十九年(1944年)2月28日の日記に、「田園スタヂオにて記念の寫眞を取り残し置く」とある。著者が嶋田海相・総長と「訣別」したと書き残しているように、生還するつもりはなく、写真も撮り残した。

 

私が持っている単行本は昭和四十三年(1968年)に原書房から発行されたもので(もっと古い別種の単行本もあるらしい)、その巻頭に「ありし日の宇垣纒中将」という上半身の白黒写真が載っている。これが、その日に撮ったものかもしれない。

 

 

彼が中将になったのは真珠湾攻撃のあとだ。襟章に桜の花二輪、濃紺の第一種軍装。参謀飾緒というらしい、あの金モールをつけていない。次のページにある山本長官と地球儀を挟んだ別の写真ではつけている。飾緒なしの山本より飾りだけは偉そうだ。

 

この写真はネットで見ると、先年出た改装版の上巻において、上半分が表紙絵になっている。下巻の写真は、本物の最後の写真で、すでに仏様の顔つきになっている。命日の服装は海軍甲事件の日と同様、移動用の第三種軍装。

 

 

この2月28日の午後、著者は列車で東京駅を発ち、車内泊だったのか、翌29日の朝8時20分に呉に到着。そして朝食後、呉軍港に行ったようで、「〇九五〇入渠工事中の隷下の大和を覗察す。四月中旬完成とは心強し」。

 

彼が司令官になった第一戦隊の隷下には、戦艦「長門」「大和」「武蔵」がある。在りし日の第一艦隊のごとし。ただし、南方で彼を待っているのは、「長門」だけだ。既述のとおり、「武蔵」はパラオで空襲を避けようとして被雷した。

 

 

このあと日付は知らないが、「武蔵」はパラオを離れ、「大和」と同じく本土で修理、改装が行われた。それにしても、戦史叢書には「大和」と「武蔵」の出番が本当に少ない。編成表にはあるが、詳しい戦闘行動は沈没したときぐらいではないか。

 

そもそも「大和」がなぜ今、呉で工事中なのか、どこかで読み飛ばしたのだ。いつもけなすことが多い Wikipedia だが、こういうときの調べごとには便利で、ただし間違いが少なくないから裏をとる。戦史叢書に裏があった。

 

 

「戦史叢書第062巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降」の後半、次期は昭和十八年(1943年)の末期。ギルバート諸島が攻略され、陸軍も多くの部隊を中部太平洋方面に送り出し始めた。

 

これが多すぎて書き切れないと申しおりしところ、はやりその中に「戊号輸送」というものがあった。同年12月16日に古賀司令長官名で出した命令、電令作第八六一号があり、陸軍の独立混成第一連隊をビスマルク諸島カビエンに三回に分けて輸送する。

 

 

東京都美術館

 

 

出発地点は横須賀または呉、トラック経由または直接カビエンに送る。なお、カビエンだけが最終目的地ではなく、戊輸送が終わった後も(連合艦隊の手を離れたあとも)、既述のとおり現地輸送でアドミラルティやツルブに展開した。

 

この戊号作戦の第一回の輸送部隊は、計画段階から戦艦「大和」を含んでおり、横須賀発、トラック行き。駆逐艦「谷風」「山雲」を伴い、12月20日に本土を離れた。そして12月25日、トラックの北西方150浬で「大和」は被雷した。

 

 

雷撃したのは米潜水艦「スケート」。魚雷が「大和」の三番砲塔の右舷に命中し、火薬庫およびその付近に浸水した。「大和」は傾斜四度に達したが、770トンの注水により傾斜を復元し、そのままトラック泊地に着いた。

 

そのあとのことは書かれていないのだが、どこかの時点で本土に至り、修理・改装が行われ、あと二ヶ月足らずで現場復帰できそうだという時期に、宇垣新司令官が見学に訪れたものらしい。

 

 

それにしても「大和」が輸送の護衛に当たったのか。このころには、南東方面の戦闘と輸送で駆逐や航空機を多数、失ったからか。もっとも「輸送に従事」という表現があるので、護衛ではなく本当に陸軍部隊を乗せたのかもしれない。

 

一方で、このたびの連合艦隊の新編成は、ホテルだ旅館だと言われた大艦巨砲の戦艦を実戦部隊にこうして集め、司令部を分離して、旗艦は軽巡洋艦「大淀」とした。また、決戦における役割も、主力は第一機動艦隊の航空母艦(第三艦隊)とした。

 

 

これは第一機動艦隊の名前に「機動」を加えているし、同艦隊の司令長官小沢治三郎中将が、隷下の第三艦隊(空母主力)を直率することからも明らかだ。宇垣第一戦隊は第二艦隊に属し、その司令長官は引き続き栗田健男中将。

 

これまで栗田提督は、「金剛」「榛名」のガダルカナル米軍基地艦砲射撃の指揮を執り、ブーゲンビル島タロキナへの逆上陸と航空戦のときはトラックから救援に来たもののラバウルで空襲に遭い、やむなく帰投している。これからも登場場面は多い。

 

 

宇垣中将の空の旅は、福岡の雁ノ巣飛行場からの離陸で始まった。かつては民間の飛行場だったが、軍も使うようになったらしい。3月2日は上海経由、台北泊。「内地同様、高等料理店廃止、芸妓休業」。翌3日は中国海南の海口。夏服に着替える。

 

4日にシンガポールの飛行場に着き、昭南にいる同期と「級会」(クラス)を楽しむ。5日に昭南神社を詣で、6日にシンガポールのセレター軍港から駆逐艦「谷風」で出航。16時45分、リンガ泊地に到着し、戦艦「長門」に「中将旗を揚げ死所とす」。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

上野五條天神社の御開帳  (2023年5月25日撮影)

 

 

 

 

 

今シーズン第一号  6月20日

 

 

 

 

 

 

.