キアシシギ

 

 

空襲続きだったので、トラック、マリアナ、パラオと話を進めたところ、昭和十九年(1944年)の5月上旬まで行ってしまった。5月3日に豊田副武大将が連合艦隊の新司令長官に着任。二日後の端午の節句に、古賀長官殉職の大本営発表があった。

 

ここで同年の2月下旬(トラック、マリアナの空襲後)に戻る。これからしばし、宇垣纒「戦藻録」を久しぶりに参照する。「戦藻録」は私が持っている単行本において、第一章が海軍の「第一段作戦」、第二章が「第二段作戦」。

 

 

第二章は海軍甲事件により中断し、そのあとは編集者によると、宇垣中将の口述筆記が続いたそうなのだ。しかし、単行本では「編集の都合上」割愛され、残念ながら収録されていない。著者が戦場にいないからか。

 

第三章の題名が「マリアナ海戦」であることは、前から知っていた。しかし当方の早合点で、6月に起きる同海戦の少し前ぐらいから再開しているのだろうと油断していたところ、著者は2月22日に現場復帰が決まり、その日から書き起こしている。

 

 

この日付は上記2月のマリアナの空襲が終わって間もなくであるとともに、竹槍事件が起き、更に海軍史においては、第一艦隊が解体された日として歴史に残る。第一艦隊は初代司令長官が東郷平八郎中将、旗艦は「三笠」だったが、この日に消滅した。

 

これは間もなく3月1日に編成される第一機動艦隊の設立に向けた一連の流れ。軍艦中心の第二艦隊と、航空母艦主力の第三艦隊は、そのまま存続し、例えば「長門」は、第一艦隊なき後、第二艦隊に移籍した。

 

 

日本海海戦で敵前回頭をやった第一戦隊(第一艦隊の隷下)は、この編成替えで第二艦隊の隷下となる。宇垣纒中将はこの第一戦隊の司令官を命じられた。「戦藻録」再開の前日、著者は電話をもらった。内定の通知らしい。初日の日記を転載する。

 

 二月廿二日 火曜日

昨日人事局長よりの電話により午前本省に行く。今回第一艦隊を廃止して第二、第三艦隊を以て機動部隊を編成、第一戦隊に司令官を置く事に改められ、其の司令官に出陣を命ぜらる。聊か豫想に反したる處なきに非ざるも喜んで赴任再起御奉公の誠を致さん。次長一部長とも會ふ。

 

 

海軍省の建物は、いま中央合同庁舎5号館が立っているところにあった。日比谷公園の隣。今は仕事柄ときどき出向いていた厚生労働省などが入っているが、かつてそこに東郷やら山本やら宇垣やらが出入りしていたわけだ。

 

宇垣さんは「いささか予想に反したるところなきにあらざるも」と書いているが、その予想が何だったのかは不明。この翌朝、かつてラバウルに南東方面艦隊が設立された際、初代の参謀長だった中原義正中将が戦病死し、「惜しむべし」と記している。

 

 

ハマシギ

 

 

このあと東京駅から電車に乗り、遠くリンガ泊地に浮かぶ「長門」に向かうまで、著者は挨拶回り(相手は主に海軍軍人とご近所)に忙しい。2月24日、早速訪問したのは永野修身元帥。永野は三日前の2月21日に軍令部総長を辞任している。

 

私はかつて本ブログのどこかで、かつて日露戦争に従軍し、先の大戦でも現役だったのは山本五十六しか知らないと書いたのを覚えているが、永野修身を付け加えないといけない。砲術の担当だった。

 

 

その永野元帥と会った宇垣新司令官(正式にはその翌25日に人事令が出ている)は、「総長辞任に至る経緯等機微事項を聴く」。この「機微」も内容は不明。同日、宇垣一成大将宅で晩餐会。最近の情勢を論じる。

 

翌25日、「中澤軍令部一部長より腹を聴きたり」。吉村昭が取材した中澤佑少将(当時)のことだ。腹って何だろう。26日の日記には、「最近の政情益々混淆しありて、強気の東條或いは行き詰まりを見るか」と書いている。なお、連合艦隊のトラック時代に、宇垣参謀長は出張で来た中澤に会っており、見識ありと高く評価している。

 

 

東條は参謀総長を兼任した直後なのだが、何故どのように早くも行き詰っていたのだろう。陸相としては兵站(輸送船や燃料の欠乏)という大問題が、解決どころか悪化の一途をたどっている。そこに連続する中部太平洋の敵空襲で、多くの輸送船を失った。だが戦藻録には軍事ではなく「政情」とある。首相の首筋が寒いのか。

 

翌26日、海軍大臣・軍令部総長を兼務したばかりの嶋繁太郎に会っている。「総長官舎にて嶋田総長、大臣に訣別す。何れの日又一人二職の此の人に會ふ機會かあらむ」という書き方になっており、永野と比べて距離感がある。軍政の介入を嫌ったのか。

 

 

出発も近づいたこの26日、宇垣纒は青山にある山本元帥邸を訪れている。遺族は疎開のため長岡に移転準備中だったそうで、「よき時に御位牌に禮拝出来た事を喜ぶ」と感想を記している。都市空襲の疎開はまだだから、暮らし向きの事情か。

 

彼は南方に移動中、昭南(シンガポール)で寺内寿一南方軍総司令長官を訪れた際、「山本元帥亡き後代わるべき人もあらねば訪問するなり」とも書いている。時々山本宇垣の不仲説を聞くが、単純すぎないか。それに司令長官と参謀長が大の仲良しなんていう部隊は、私なら敬遠する。イエスマンを並べると、東條のようになるだろう。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

チュウシャクシギ  (2023年5月6日撮影)

 

 

 

 

小雨降る不忍池の翡翠  6月22日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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