今日はコチドリ
前回に引き続き、連合軍情報局の英文資料より、最後の部分を参照する。中将一行の引渡し後、三日間の静寂があり、やがて日本軍は空爆を再開した。しかし、攻撃されたのはケリラの拠点だけだったとある。
その次に、クッシングが福留中将から聴いた話として、パラオから出発し、二番機が墜落するまでの経緯が載っている。この件は日本側の記録と大差はない。ときどき「Kawanishi」という固有名詞が出てくる。
これは二式大艇(正式には「二式飛行艇」)を製造した川西飛行機株式会社のことで、航空機に詳しくない私のような者が、各機種をひっくるめてグラマンと呼ぶのと同じだ。川西が墜落したとき参謀長は意識を失い、機密書類は漁民の手中に落ちた。
この書類の原本がどう扱われたのかについては、吉村昭「海軍乙事件」にも記載がある。人質の移送を諦めたクッシングたちは、包囲網を潜り抜けて機密文書を米潜水艦に届けた。これがブリスベンに渡り、翻訳され、原本は再び潜水艦でセブに戻る。
繰り返しになるが、この原本は紛失したままだと日本軍が作戦を大々的に変更するおそれがあるため、日本のダイバーが探して見つけやすいところ、すなわち川西が墜落した海面あたりに再び防水ケースに入れて流した。
ただし千早正隆の証言にあったように、原本は二冊あったようで、なぜか連合軍の手元に残ったもう一部が、戦後のGHQの資料の中に眠っていたのを千早が探し当て、吉村が確認するという展開になった。
撮影場所は葛西臨海公園
以下、吉村昭「海軍乙事件」の終章より。比国セブ島は乙事件の半年後、昭和十九年(1944年)の9月13日に初空襲を受けた。セブ在住の日本人のうち、若い男子は軍命令により義勇軍を結成し、高齢者と婦女子には避難命令が出た。
避難者の中には小野田セメントの職員もいたが、機帆船でマニラに輸送中、敵魚雷艇の雷撃で沈んだ。海に漂う乗客に、米軍は機銃掃射を繰り返した。ただ一人、重傷を負うも生き残ったのが、あの墜落の夜、セメント会社に泳ぎ着いた谷川整長の突然の訪問を受けた尾崎治郎氏だった。
翌年の3月26日、米軍は艦砲射撃のあと、上陸作戦に出た。セブ島に残った小野田セメントの社員は、すべて戦死または病死。クッシング中佐のケリラ隊は兵員8,500に膨張し、セブ島の日本軍は苦戦を強いられる。
終戦まで抵抗をつづけたものの、大西大隊は過半数の577名が戦死した。戦後、多くの日本人指揮官が軍事法廷に立たされ、捕虜虐待の廉で絞首刑になった。大西精一大隊長もセブ島住民の告発を受け、マニラのモンテルバ収容所送りになった。お世話になった吉村書の最後の箇所を引用し、海軍乙事件の連載を終了する。
しかし、大西大隊に虐待事実の確証はなく、逆に住民を好遇していたこともあきらかになって、大西中佐は無期刑に処せられた。その取り調べ中、ゲリラ隊長クッシング中佐から大西が約束を守って包囲を解いたことに感謝する旨の証言もあった。
大西は、後に巣鴨刑務所に送られ釈放された。不時着機搭乗員中、現存しているのは元海軍一等飛行兵曹吉津正利、今西善久の両氏のみである。
(おわり)
目の周りが黄色い (2023年5月12日撮影)
不忍池 今季初 6月20日
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