横浜海軍航空隊の基地跡には神社がある。

 

 

海軍乙事件のブログが意外と長くなった。話題が多い。愉快なものは少ないが。前回の続きで、軍令部の伊藤整一次長がフィリピンのマニラに向かった件。現地陸海軍との調整が目的で、要は無難に早く事件の決着を図りたい。

 

現地海軍の第三南遣艦隊は福留中将一行を収容した後も、なお機密書類の行方を捜すため空中からビラを撒いたそうだ。「書類などを持っていたら差し出すように、さもなくば」という感じで、米軍の伝単より強気だが、もちろん効果はなかった。

 

 

伊藤次長は同艦隊の司令長官、岡新中将を訪ねた。岡長官は福留中将の海兵同期。「不慮の事故に遭った福留のとった行動は決して恥ずべきものではない」と主張した。福留繁と同期であるならば、宇垣纒や山口多門とも同期。

 

海軍士官の回想を読んでいると、同期が出先などで集まる「クラス」が時々出てくる。下士官兵は、戦後の戦友会の名前が示すように、陸軍なら郷土、海軍なら乗船が多いが、士官にはそういう共通の現場が少ないので同期が大事らしい。

 

 

同じ兵学校の庭に咲くのだ。現代でも似たようなもので、中高までは郷里の同窓会で集まるが、大学や就職では県人会より同期のほうが身近だろう。ともあれ、こうして伊藤次長にとっても福留中将にとっても、難関を一つ乗り越えた。

 

次は陸軍で、フィリピンのルソン島に司令部を置く第十四軍。吉村は第十四方面軍と書いているのだが、正確には第十四軍が昇格して、第十四方面軍になったのは、この少しあとの昭和十九年(1944年)7月のこと。

 

 

 

もっともその際に司令官は交代しておらず、伊藤次長が面談した黒田重徳陸軍中将がそのまま方面軍司令官になり、後任が上掲サイトのとおり山下奉文陸軍大将。次長は司令官に、ゲリラは正規の敵かと訊いた。黒田司令官の反応は次のとおり。

 

黒田陸軍中将の答は極めて明確で、「福留中将が捕虜になったなどということは、陸軍としては一切問題にしていない。ゲリラは、確かに味方ではないが、敵でもない。ただ治安を乱す集団であるので討伐しているにすぎない」。

 

 

日本の行政用語の一つに、治安が乱れることを「事変」と呼ぶことがある。私がカンボジアに駐在していたときに起きた市街戦のことを、現地の英字新聞はクーデタと呼んでいたが、日本政府は正式に事変と称していた。

 

黒田中将の回答は、満州事変、上海事変から始まる支那事変において、パリ不戦条約に批准したまま、宣戦布告は国際法上できず、実際布告せず、大陸中国で治安維持をしてきたのだという陸軍の理屈に沿ったものだ。

 

 

相手の中華民国も宣戦布告せぬまま大東亜戦争を迎え、後世はこれらをひっくるめて日中戦争と呼んでいる。不戦条約は学校の授業で、ケロッグーブリアン協定の名で習った。一次大戦の流血で生まれ、二次大戦で反故になった。

 

 

 

黒田重徳には個人的に興味がある。私の姻族(妻の母方)には、黒田官兵衛またはその兄の子孫だという言い伝えがある。実際、姓は一時黒田家も名乗っていた別の姓と同じで、それぞれの出身地も近い。それに男子の名に「重」を含める習いがある。

 

関ケ原のあと、官兵衛と息子の長政は、徳川幕府から博多の地を与えられ、福岡と名付けて幕末に至る。重徳さんもネットの諸情報によると、福岡県出身になっている。出来具合に差があるが、同族かもしれない。

 

 

ようやく現地対策も無事に済み、中央の懸念は払しょくされた。それがどのように文書にまとめられたかは次回に記す。今回の最後の話題は、サイパンから来た八〇二空の二式大艇「第十九号艇」に乗っていた搭乗員たち。

 

一行は九名全員でセブの水交社まで来て、そこから士官のみが本土に渡った。セブでは三名の士官と、六名の搭乗員が別の部屋になり、後者の部屋で機長(もう機はないが)の岡村中尉が部下を集めて訓示した。

 

 

中尉曰く、残念ながら捕虜になった(陸軍の黒田中将も「捕虜になった」と表現したようだ)。海軍軍人としては最大の恥辱であり、おめおめと帰れぬ。自決しかないというと、他の者も同意した。おそらく、こういうとき反論できるものではない。

 

しかし中尉は福留中将に呼び出された。中尉が自決用に短刀を集めたことが伝わったらしい。中将は現今の搭乗員不足の実情を挙げ、「日本海軍の損失」になるようなことは考え直してほしいと説いた。その続きは本文より。

 

 

部屋に戻ると、部下に福留中将の言葉を伝え、「参謀長のお言葉に従い、自決は保留にする。基地に帰るのは誠に辛いが、おれたちはそれぞれ一機一艦の体当たり攻撃をして恥辱を拭い去ることにつとめる。それまでの命だ」と、言った。搭乗員たちは無言で頭を垂れていた。

 

一同はこのあとサイパンに戻る。岡村機長はまもなく、エンジントラブルの機で発進し未帰還となった。伯父と会えたかもしれなのに。仮に彼らが自決していたら、海軍乙事件は、もうひと騒ぎあったはずだ。実際にどう収束させたのか、次回で纏める。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

浜空神社にあるのだが、広く「海軍飛行艇隊」の鎮魂碑。 (2023年4月2日撮影)

 

 

 

 

雨上がりの撫子 6月2日

 

 

 

 

 

 

 

 

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