横須賀の海軍墓地

 

 

吉村昭著「海軍乙事件」は、その舞台がセブから離れ、マニラ経由で中央に移って以降は、当然ながら既述の戦史叢書と同じ内容の記載が増える。以下、同書ならではの記録を参照する。遭難者が紛失した機密文書はとうとう見つからなかった。

 

「捜索に当たった第三南遣艦隊の司令部内には、福留中将を軍法会議にかけるべきだという強硬意見を口にする参謀すらあった」と吉村は記している。改訂版のZ作戦は連合艦隊のみならず、比島海域を所轄する同艦隊にとっても重要な計画だった。

 

 

 

事故で失くしましたでは済まされない。ちなみに、この艦隊に所属していた軽巡洋艦「球磨」は、ガダルカナルに向かう第三十八師団を、香港からラバウルに運んでいる。その「球磨」もすでに雷撃で沈んだ。敵潜はセブ島のゲリラに補給もしている。

 

 

そのような空気が中央に伝わったらしい。フィリピンで騒動になり乙事件が表ざたにならぬよう、海軍中枢は戦史叢書にもあったように、本土帰還を急かした。一行のうち福留、山本、山形の士官三名は、セブの水交社に着いた翌日には出発している。

 

マニラを経由したが、中央はそこでの燃料補給時間を短縮するよう指示している。それは危ないのだが。しかし4月14日には、乙事件は内閣の知るところとなり、また横浜や横須賀では長官が行方不明になり、参謀長が囚われたという妙に正確な噂が流れていると警察から海軍に報告があった。

 

 

福留中将一行は、4月17日に大村基地に到着、翌18日に羽田に着いた。午後3時、さっそく重鎮が集まって会議を開いた。その中に、「軍令部次長伊藤」が含まれている。翌年、戦艦「大和」と共に沈む伊藤整一中将(当時)。次回、再登場する。

 

席上、福留中将と山本中佐は、「機密図書等に対する尋問は全くなかった」と述べ、中将はさらに「ゲリラは機密図書に関心をいだかぬようだった」とも語った。海軍次官沢本中将は「安堵」したとある。でも大丈夫か。

 

 

もしも、指揮官のクッシングが現物を手に入れ、大いに関心を抱いたとするならば、セブで参謀長一行を尋問すると、文書を入手したことが相手にわかってしまうだろう。私なら黙って後方に急送する。実際そうなったらしいので、後に検証する。

 

ツラギの浜空。飛行艇が見える。

 

 

機密文書紛失の憂いが薄らいだとはいえ、もう一つ、「生きて虜囚の辱め」の件は、片付いていないし、むしろ陸軍も世間も、こちらのほうに気づいている。そこで三名はすぐに解放とはならず、先述の池田邸で軟禁状態におかれた。

 

沢本海軍次官ら五名の重役は、彼らを軍法会議にかけるか否かで意見が割れ、激しい議論となり、「主張は完全に対立した」。最後の手段は民主的に多数決。挙手で決めた結果は、三対二で不問とすることになった。吉村が「某軍令部高級部員」のメモを引用しているので、ひながなに換えて転記する。

 

 

福留中将の心境並に自決の肚あるや否やにつき観測をなしたるも、意志ありとするもの、次官は無しと言い、結論は今夜特に監視を附せず、若し本人が自決せんとするならばその欲する道を執らしむべしと言う意見に一致して、特に監視を附せざることと決す。

 

池田邸における監視を外し、自決の機会を与えるということだ。これは実際に行われ、吉村に言わせると、「むしろ自殺することを望んでいたと言うべきであろう」。やっぱり戦争はろくなものではない。

 

 

ともあれしかし、生きている。やむなく翌日、嶋田海軍大臣・軍令部総長が、直に事情聴取を行った。福留中将の証言が、今さらここで変わるはずもあるまいと思う。要は最終確認を最高責任者が行うという儀式は済ませた。

 

そして締めに、追加の調査を行い組織決定することになった。軍法会議は不問とするとした場合、厳しい批判が出てくるとすれば、現地の陸海軍であろうと考えた。そこで軍令部より伊藤次長が比島に出張することになる。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

戦艦「三笠」の副砲  (2023年4月1日撮影)

 

 

 

 

 

萩の花 6月1日

 

 

 

 

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