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児島襄「太平洋戦争」(中公文庫)においては、マリアナ空襲の損失は「せっかく丹精した優秀部隊の無用の損耗である」と評されている。私はこの丹精するという言葉が好きなのだが、この文脈ではつらい。では戦史叢書(6)の該当箇所より。

 

二月十七、十八日にトラック空襲後一旦離脱した米機動部隊は、二十二日夜からマリアナ諸島に接近した。

 

進出途上にあった第六十一航空戦隊陸攻隊の主力は、ただちに攻撃を開始したが、翌二十三日にはマリアナ方面全域にわたって、米機動部隊艦載機の大空襲を受け、第六十一航空戦隊および所在第二十二航空戦隊は、総計百二十機を越す大損害を受けた。

 

 

港湾、鉄道等の軍事施設はほとんど無事だったが、「北の満鉄、南の南興」で知られた南洋興発のテニアン工場が、約一千万円の被害を受けた。同社は主にサトウキビの栽培、砂糖の製造、本土への輸出を行っていた。

 

千早正隆「連合艦隊興亡記」(中公文庫)より補足すると、基地航空部隊のマリアナ進出は中攻機の主力が先行したが、戦闘機や偵察機が遅れ、このため「戦闘機を持たない同部隊は、ただたたかれるだけであった」。初陣の惨敗は不幸な前途を暗示するかのようだった。

 

 

続いて前掲書「丸」別冊の手記、中島親孝氏著「連合艦隊と中部太平洋作戦」の著者は当時連合艦隊参謀で、同月15日に司令部は「武蔵」で横須賀に入港。本土で立て続けにトラック空襲、マリアナ空襲の急報に接した。

 

この回想録によると、「戦闘機隊は天候の障害を受けて進出が遅れた」。22日時点で進出を終えていたのは、陸攻39、零戦10、野戦12、彗星12、艦艇8、輸送機4の計93機に過ぎなかった。

 

 

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この日一〇三五、索敵機がテニアン沖で敵空母二、三隻を発見したが、6通の電報報告が全て不達となり、薄暮攻撃の好機を逸した。夜間、黎明の攻撃を行ったが、敵損害は軽微。日本側は空戦および空襲のため、「九十三機のうち九十機を失うという壊滅状態になった」。

 

不思議なことに、陸戦はもちろん海戦においても、損害の規模と内容を表すにあたり戦死者を示すのだが、空戦だけは機数だけのことが多い。他国もそうなのか? 単座ばかりではあるまいし、何より搭乗員は得難い戦力ではないのか。

 

 

最後に海軍の戦史叢書(71)。マリアナ空襲は、「痛く海軍部を驚かせた」。24日、トラックから発進した偵察機は、テニアン東方で米艦隊を発見、未帰還となり、海軍は敵機動部隊が撤収したと判断した。大本営は25日、急ぎ以下の措置を進めている。

 

2月16日に内定していた陸軍の第三十一軍の戦闘序列を下達。「中部太平洋方面ノ作戦ニ関スル陸海軍中央協定」の締結。26日、海軍は「東号作戦」の部隊編制を発動を決意した(横須賀海軍航空隊の主力を連合艦隊の隷下とする計画)。

 

 

これらを受け、海軍ではマリアナ方面の緊急策の検討に入り、陸軍は第三十一軍の動員を3月1日から開始した。マリアナに関する中央の動向はいずれまた詳細を見るとして、本ブログはこれから予定どおり、海軍乙事件を題材にする。

 

なお、次々回の参考文献は、戦史叢書に加え、上掲の中島親孝氏著「連合艦隊と中部太平洋作戦」。この事件が起きたときも、連合艦隊の参謀としてパラオにいた。古賀峯一司令長官と交わした最後の挨拶を、戦後に伝えた一人である。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

ヤマガラ  (2023年3月12日撮影)

 

 

 

 

 

てっせん 4月20日朝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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