このブログは6年前の2017年1月に、伯父の慰霊のためテニアン島に渡ったすぐ後から書き始めた。当時は戦史叢書の存在すら知らず、観光用のガイドブックだけ読んで行ったものだから、第一航空艦隊の司令部の遺構も、ざっと見物しただけという有様。

 

これではいかんと思い、帰国後にテニアンやサイパンからの生還者の手記などを読み始めたのだが、よく事情を呑み込めなかったことの一つが、米軍上陸時、テニアン基地には搭乗員は残っていたのに、航空機はなかったという不思議な状態だった。

 

 

後の勉強で大まかな経緯は分かってきたものの、ここで改めてマリアナの戦いに進むにあたり、テニアンの基地航空部隊についても取りまとめる。前回までに中部太平洋の戦力強化の一環で、「陸」の第三十一軍、「海」の中部太平洋方面艦隊に触れた。

 

今回が「空」の第一航空艦隊だが、ややこしいのはこれと同一名で、別種の名高い艦隊がかつてあった。真珠湾やミッドウェーに向かった南雲中将の航空母艦を主力とする艦隊がそれだ。その後の編成替えで、この機動部隊は第三艦隊と名を変えている。

 

 

したがって今回以降、特に注釈もなく第一航空艦隊と呼ぶものは、かつての空母ほか船舶を揃えたものではなく、新設の基地航空部隊の集合体。その発足は早く、海軍の第三段作戦が始まった昭和十七年(1942)の7月1日だった。錬成の途上にある。

 

同名の別艦隊が過去にあって、ややこしいと書いたが、立案者の源田実軍令部参謀の意図は、「真珠湾直前の第一航空艦隊のような、高度の練度に仕上げ、いよいよという時に、堰を切って水を流すように作戦に投入すればよい」というもので、これは源田實著「海軍航空隊始末記」(文春文庫)に記載されている。

 

 

   

ヒドリガモ 夫婦相和し    マガモ これは両方オス

 

 

もっとも、この決戦兵力構想は「二本立」であり、一つがこの基地航空部隊で、従来のような特定の基地に所在するものではなく、戦局に応じ各地を「急速転進」する。もう一つが、建造中の「大鳳」を含む航空母艦部隊で、両者の協働を要する。

 

源田中佐は、昭和十七年(1942年)9月に第十一航空艦隊の参謀になったが、マラリアの高熱で入院、後送され軍令部一課の参謀となり、さらに静養している間に考えたものだと書いている。

 

彼は訓練中の新たな基地航空部隊が、即座に戦闘に招かれないよう、中央直轄を念頭に置いていたそうだが、結局は連合艦隊の隷下となり、マリアナ沖海戦を迎えることになった(その前の渾作戦については後の回で言及する)。

 

 

この案が日の目を見るのに時を要したのは、やがてガダルカナル撤退作戦が始まり、南東方面の戦局が悪化、さらに連合艦隊の山本司令長官の戦死と多事多難。源田案は偵察機、戦闘機、爆撃機、攻撃機あわせて1,600機を要する大部隊だったが、戦局が逼迫し、待ちきれず出来ることから始めることになった。小出しになった。

 

発足に先立つ6月19日付の軍令部総長による奏上文が、「戦史叢書第039巻 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期」に掲載されている。「当初は二個航空部隊をもって編制する」とあり、源田書によれば、陸攻隊および戦闘機隊が各一。

 

 

陸攻隊は源田書によると「龍」部隊、戦史叢書では第七六一海軍航空隊(鹿屋)。戦闘機隊は「虎」部隊と称し、公式名は第二六一海軍航空隊(鹿児島)。7月1日に宮中にて角田覚治司令長官の親補式が行われ、翌2日、横浜基地に将旗を掲げた。

 

参謀長は三輪義勇大佐。源田書によると、作戦参謀には淵田美津雄中佐が任命され、飛行隊長級には真珠湾攻撃の中核となって働き、今は横空で実験研究に携わっている精鋭が集まった。課題は搭乗員の訓練である。新人が多い。

 

 

この点を捕捉すると、この遊撃部隊が登場した後も、例えばラバウルの第十一航艦のような拠点航空部隊は存続するし、むしろ戦史叢書によると海軍はさらに南西方面も強化する予定でいる。この第一線からエースを引き抜くと戦線がもたない。

 

このため源田案では、「充当の搭乗員としては、指導幹部には歴戦有能の士を当てるが、一般搭乗員には出来る限り、練習航空隊の教科修了直後の新人を投入する」。熟練搭乗員は極力、激戦の続く南方に向けたいとある。訓練期間は内地で約一か年の見込みだった。厳しい訓練が始まったが、半年ほど遅きに失したと著者はいう。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

ジョウビタキ 上が♂ 下が♀

 

 

 

 

 

上野寛永寺の牡丹 4月9日

 

 

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