記事の中身が中部太平洋に進むため、パプアニューギニアの話題は、これから小出しにしてゆきます。写真は調査現場に近いホスキンス岬。渡航時期は雨季だったので、曇ときどき雨の日が多かったです。
特に1月、2月は海が荒れて、船が出せないと地元の人から聞きました。ガダルカナル撤退作戦は、その2月に決行されましたから、ラバウルに向かう駆逐艦は随分と揺れたのではないかと想像します。荒天のおかげで、連合軍に見つからなかったのかもしれません。
上記のとおり今回から主戦場は、これまでの南東方面を離れて、中部太平洋方面に移る。すでにマキンとタラワの陥落を話題にしているのだが、少々事情があり、今回と次回は時期を遡って、昭和十八年(1943年)の出来事を扱う。
今回は太平洋戦史には余り出てこないツバルという国の話。そこに私が出張したころはまだ、殆ど全く知られていない国だったのだが、地球温暖化で沈みそうな島嶼国であるというお気の毒な理由で、ときどき話題になっている。なお、珊瑚礁が隆起してできた島々は、自重で自然と沈むという説も聞いたことがある。
今年は夜の初詣 村の鎮守の諏方神社
ここでツバルを話題にする理由は、この小さな国に日本海軍の飛行機が墜落したという逸話を、楢崎修一郎著「骨が語る兵士の最期」(筑摩選書)で読んだからだ。楢崎先生の専門は人類学。本書の内容は自然人類学・骨学だけではなく、文化人類学や歴史・地質学など多面的、学際的なものだ。
この本は、私がビスマルク諸島に行く件が内定したときに、関係者から読んでおくよう勧められたもので、確かに渡航前に読んでおいてよかった。著者は私より二歳年下だが、惜しくも私が伯父の慰霊でテニアン島に渡った二年後、そのテニアンで遺骨鑑定のお仕事をしてなさっていたときに病没された。ご冥福をお祈りします。
本書においてはパラオや樺太など、太平洋のあちらこちらで遺骨鑑定をしたときの経験、その成果や苦労などが多彩に語られている良書。遺骨収容に関わりがない人にもお薦めする。戦地だった場所にゆくなら、この本で慰霊の心構え等に触れてほしい。
本日の題材はツバルに絞る。海外出張しておいて知らなかったのだが、ここに日本海軍がいた。本書によると、昭和十八年(1943年)8月9日午前3時10分、タラワ飛行場から二機の攻撃機が哨戒のため離陸した。しかし、一機は帰投したものの、もう一機が行方不明になった。
払暁の不忍池
それから60年ほど経った2007年、タラワがあるギルバート諸島のヌイ環礁において、当時の住民が、グラマンに撃墜されて戦死した日本海軍の軍人を、共同墓地に埋葬したという島の昔話が日本の外務省に伝わって来た。機は一式陸攻で、3名が埋葬されたという情報だった。後述するが、実際は1名だったらしい。
2014年、厚生労働省が調査団を派遣することが決まり、楢崎遺骨鑑定人が同行することになった。著者は戦史にも詳しく、機種や人数に疑問を持ち政府に再調査を依頼したところ、果たして幸いなことに記録が残っていた。
同機の所属は、第七五五海軍航空隊(前身は、今の北朝鮮に在った元山航空隊)で、真珠湾攻撃の前から内南洋に進出。後に連合軍のタワラ上陸で壊滅的な打撃を受け、テニアンに移っている。
記録によると、その航空機は一式陸攻ではなく、一世代前の九六陸攻(九六式陸上攻撃機)で、その日に搭乗していた七名全員の氏名も全て判明した。下調べを終えて、調査団は私の出張と同じ経路で、フィジー経由、タラワの首都フナフチに到着した。
出張した当時、この飛行場は昼夜を問わず出入り自由で、島民が子供たちを遊ばせていた。何日かに一度、フィジー等から来る飛行機が接近すると、空襲警報みたいのが鳴り響くので、皆さん、しばらくの間、どいてやる。夜その滑走路で、ビールを飲みながら南十字星を眺めていたのを覚えている。
著者は船旅や発掘許可で大変な苦労をされているが、ここでは簡略に一つだけ拾う。七名からなる長老の会議に、発掘は「あいならぬ」と拒否されたが(理由は不明)、趣旨を詳しく伝え、万遍なく一人ひとりに手土産持参で訪問し、許可を得た。
現場はヌイ環礁にあるフェヌア・タプ島。その島で墜落事故の目撃者、リー・タンさんに会う。当時少年だった彼は攻撃機を追って走った。海上に墜落後、3人の島の大人がカヌーで救助に向かい、かすかに息のあった一名のみを島に連れて戻った。
しかし、海岸に着いたときにはもう息が無く、「家族墓」に埋めたという。問題はその家族墓の位置がわからず、あの椰子の木の下だと教わって発掘しても出ない。そのとき調査を見物していた島の女の人が、「うちの旦那さんのお父さんが、自分の家族墓に日本人を埋めた」と生前語っていたと伝えてきた。
共同墓地には、珊瑚が敷き詰めてあった。著者はその一部分が、周囲と比べて比較的、新しいことに気付いた。そして、その場所だけは家族ではなく、誰が眠っているのか分からないと土地の所有者がいう。時間もなく、これに賭けた。
ところが、新しいと分かるだけあって戦時中のものだけではなく、他の遺骨も出てきた。最初が女性、次が子供、その次も子供。著者はサイパンとテニアンで民間人の集団自決の遺骨収集もしており、子供の骨には胸が痛むと書いている。
他にも男性の骨格などが複数出てきたが現地の人のもので、いよいよ掘る場所が限られてきたころ、日本人らしい成人男性の全身骨格が見つかった。日本人らしいというのは、例えば生きている人を見ても概ね区別がつくが、現地人や米豪人とは頭蓋骨の形状が異なる。
決め手は海軍の軍服についていたボタンだった。それまで、発掘されたお骨の説明を「ギャラリー」に丁寧に説明してきた著者が、これは日本人だと英語で伝えると、全員諸手を挙げて喜んでくれた。子供たちが珊瑚を集めてきて、墓地の原状復帰の作業も無事終えた。
そのあとも重要な段取りが待っている。いったん永遠の眠りから起こしてしまった場所に生け花を添える。焼骨式を行い、白い袋に収め、拾いきれない骨灰は、六名の搭乗員と陸攻が今なお沈んでいるはずの近くの海に水葬し、敬礼した。子供たちも真似して敬礼している。
著者はそのあとで鑑定の報告書を現地で書いている。過去にもこの報告がないと、出国させてくれなかったこともあったらしい。確かに、日本人であることを伝える必要がある。この遺骨は脚の骨が長く、推定身長は172センチと当時では長身だ。
リー・タンさんから、貴方と同じくらいの背丈だったと聞かされていたとおり、著者の身長と同じだった。歯にも特徴があり、これなら身元調査に役立つだろう。実際に特定できたかどうかは、本件に限らず本書には書かれていない。
この飛行機が墜落してから約三か月後の11月21日、連合軍がタラワに上陸し、迎え撃った第七五五海軍航空隊は、本書によると41機あった陸攻が11機に減る大損害で、翌12月にテニアンに拠点を移した。その後のマリアナ空襲などで、その大半は失われたものと推測する。伯父の部隊が進出したころ、もう航空機はなかったはずだ。
(おわり)
うちの玄関先から見た筑波山 (2023年1月5日撮影)
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