キセキレイ

 

 

先述した明日からの海外渡航のため、今回を当面の区切りとして、十日間ほどブログを休みます。万一すぐさま更新再開になるとすれば、あいにく出国条件であるPCR検査で陽性になったときです。

 

 

今回も、引き続き前回の参考書だった鈴木軍医の著書を読むが、その前にもう一冊、どこかの古本屋で、安価に釣られて衝動買いした古書がある。航空同人社/陸軍航空氏刊行会発行編「日本陸軍航空秘話」(原書房)。まずは、あとがきより抜粋。

 

大東亜戦争における陸軍航空の作戦成果は遺憾ながら十分ではなかったが、その原因は複雑である。けれども、大陸で対ソ作戦を目標に錬成した航空部隊を、不準備・不慣れの海洋正面に投入した点が最も重大である。これはもとより中央部の責任であった。第一線の部隊は勇戦敢闘し、敗れたりとはいえ伝統精神を充分に発揮した。

 

 

本書は座談会の議事録で、戦争経験者の数十名が、その時代区分により入れ替わりで参加している。今回はそのうち、「第五章 大東亜戦争ー前期」の一部、南東方面の箇所をみる。同方面への航空部隊の投入の是非は、最初から意見が分かれた。

 

これは辻正信著「ガダルカナル」にも出てくる逸話で、参謀本部の久門有文航空作戦班長が反対、辻作戦班長が積極的。久門班長の後任だった松田正雄氏によると、「喧嘩になった」。まずは司偵中隊「独立飛行第七十六中隊」が派遣された。

 

 

やむなく次第に兵力が増強され、第四航空軍が東部ニューギニアのウェワクに新設された。同書に司令官寺本熊市中将の顔写真が載っている。しかし、作戦成果が「遺憾ながら十分ではなかった」理由が、幾つか挙げられている。

 

第一に、飛行場の未整備。海軍の飛行場を借用できたラバウル以外の地では、陸兵が円匙や十字鍬で手造りした速成の飛行場ばかりで、連合軍のアスファルト舗装された滑走路などと比べ、基地としての機能を充分に果たせなかった。

 

 

ほかにもいろいろあって、部品や燃料を運ぶ輸送の困難。船団や港湾の守りだけで消耗し、敵との交戦がままならなかったこと。ウェワク以西に強力な拠点がなく、逆に以東は密集状態で、配置のバランスが悪かった等々。大陸とは勝手が違った。

 

第一線の苦労の一つは、航空部隊と陸上部隊の仲が悪くなった点。陸上部隊からすれば、ときには地上の戦闘に優先して、飛行場造りをやらされる。航空部隊にすれば、やっと飛行場が使えるかという段階にきて、陸上部隊が敗戦、撤収してしまう。

 

 

座談会なので互いに異なる意見も出ているが、概ね一致している点として、「飛行場建設の戦いに敗れた」というのが、南東方面で顕著になった傾向である。下手な指揮者がタクトを振ると、オーケストラが乱れる。これは続く濠北方面でも同様だった。

 

さて、鈴木軍医の前掲書に戻る。サラモアからハンサまで600キロの道のりを歩いてきた第十八軍の将兵残部は、これからハンサを捨て、ホーランジアまで570キロを歩くことになる。東京ー大阪間の直線距離は400キロで、マラリア蚊も鰐もいない。

 

 

アオジとシジュウカラ

 

 

第十八軍がこの行軍を開始したばかりの昭和十九年(1944年)4月22日払暁、日本軍の目的地たるホーランジアとアイタぺに、連合軍が上陸した。まだハンサに残っていた軍司令部の指揮所では、前後を断たれて「悲痛な空気が漂い始めていた」。

 

ともかく、第十八軍は動き始めている以上、ウェワクまでは進み、集結しなければならない。その途上に「魔のデルタ地帯」が待っている。この巨大な湿地帯は、横切るのに一か月ほどかかるとの見込みで、底なしの泥沼との戦いだった。

 

 

首のあたりまで泥につかると、銃などの装具を両腕で抱え上げないといけない。全身にトゲのようなものが突き刺さる。大小便も泥の中で用を足すほかない。著者はこの行軍の間、「棒杭のように水の中に直立して死んでいる兵隊を何人も見た」。

 

ようやく、これを乗り切って、ウェワクに近いカウプという地で、友軍のトラックに載せてもらった。移動中、沿道の一キロほどの幅に積んであった友軍の弾薬集積所が敵襲で炎に包まれている。

 

 

着いたウェワクでも敵銃爆撃に襲われ、しかしある程度の間隔を置きながら波のように襲ってくるので、合間を縫って滑走路を歩いて渡った。ウェワクには第五十一師団の司令部があり、中野師団長の温顔に迎えられ疲れが一時にふっ飛んだ。

 

それも束の間、著者の一行はウェワクとアイタぺの中間にあるボイキンに海路、移動しないとならない。先行した安達軍司令官や吉原参謀長が詰めている軍戦闘指揮所がそこにあるからだ。

 

 

そこについて早々、B25の激しい爆撃で濠が崩れた。司令官は無事だったが、戦死者が出て、参謀長もケガをし、全遺体を収容するまで一週間かかった。前掲書の秘話によると、このころには司偵一機で乗り込んでも、相手にされなくなっていたそうだ。

 

安達軍司令官が率いたアイタぺの戦いは、まだ先のことなので、今回を以てニューギニアを離れ、中部太平洋方面に移る。ニューギニアは野鳥の天国で、人の言葉の真似が上手いのもおり、軍司令官によると「ハタゾー」と名を呼ぶ鳥もいた。どこの誰が教えたのやら。それでは、しばらくお休みします。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

うちのマンションの最上階より  (2023年元日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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