初詣先 谷中の天王寺

 

 

これから大筋で、南東方面から中部太平洋方面に移行していくのだが、まだ重い宿題が南東方面に残っている。東部ニューギニア。ニューギニア戦線と聞いて、心おどる人はまずおるまい。聞いたことがあるくらいの人も、減ってゆく一方なのだろう。

 

静岡と東京では、松の内は1月7日まで。お粥も食べ終わり、第1435回を最後に離れた東部ニューギニア戦線に戻る。陸軍の戦史叢書でいうと、これから第084巻に移る。

 

 

昭和十九年(1944年)は、2月にトラック島の大空襲があり、その影響を受けて、中央では軍政と軍令のトップを、陸海とも一名が兼任することになった。3月、アドミラルティー諸島を連合軍が占領した。

 

この2月ごろまでには、ラエやフィンシュハーフェンから撤収してきた第十八軍の主力はマダンに集結を終えたようで、同3月、第十八軍は第八方面軍の隷下から離れ、濠北の第二方面軍に転籍する。

 

 

息つく間もなく、その翌4月、連合軍がホーランジアとアイタぺに上陸してくる。蔵書の「丸」別冊「地獄の戦場」に、アイタぺの戦いは「第十八軍最後の光輝」だったという表現がある。

 

今後の一連の記事は、以上の時期を対象とし、その次の段階であるビアク島や渾作戦(西部ニューギニア)は、伯父の戦争と同時期で関連性もあるため、またも間が開いてしまうが先のこととする。では地図。ニューギニア半島の大きいこと。

 

 

 

 

大きするので、東部ニューギニアの西半分を、更に二つに区切る。グーグルマップのコピーであり、地名は現在のものだ。右端(東側)に突き出た半島が、サラワケット山系が走るフォン半島。南側の湾内にラエ、東端にフィンシュハーフェン。

 

この半島の右側の海に、先回までの捜索第五十一連隊が渡ったウンボイ島が見える。図の右外側に、ダンピール海峡をはさんでツルブ・グロスター岬がある。フォン半島に展開していた第十八軍の第一線は、西進して地図中央のマダンに至る。

 

 

日暮里の善性寺

 

 

事情は次回以降に譲るが、マダンを死守する意義は無く、各師団は更に北西に進むことになった。この地図の左上にあるウェワクもその目的地の一つで、陸軍航空部隊の第四航空軍が拠点を置いていた。

 

この縮尺だと地名が表示されないのだが、マダンとウェワクの中間点、小さな丸い島が浮いている湾がハンサ。これまで何度かハンサ輸送という言葉が出てきて、第四航空軍が直掩にあたっていた。日本軍の物資の集結地で、ここも行軍の目的地の一つ。

 

 

 

 

二番目の地図は、一番目のすぐ西側にあたり、右下にウェワクが再登場。海岸沿いに西進すると、アイタぺがある。これまでその名が出てこなかったのは、あまり基地として強化されてこなかったからだ。ここを衝かれる。

 

その先に、白く塗られた地があり、このシャヤプラという地名が、当時はホーランジアだった。地図では南北に真っすぐの線が引かれており、現在ではパプアニューギニア国とインドネシアの国境線になっている。

 

 

おそらく大戦時まで、この線の東側がオーストラリア領であり、西側がオランダ領であったはずで、日本軍の呼称の東西ニューギニアも、ここが境界線だと考えてよいと思う。誰か、はっきり言ってくれないかな。ここが絶対的国防圏という「虹の付け根」のはずなのだ。

 

この図の左上(西ニューギニア)に、サルミという地名もある。まだ先のことだが、日本軍はここまで撤退を余儀なくされる。以上、今後もよく出てくる、主だった地名の確認を終える。この長い海岸線を、日本軍は徒歩と大発で移動していった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

上野の寛永寺、根本中堂  (2023年元日撮影)

 

 

 

 

 

 

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