ツグミ

 

 

前回から書き始めている事柄は、第1492回までに扱ったツルブ守備の松田支隊が、命令によりラバウルへと撤退した件の補強。本ブログは小さな戦場や負けた戦闘を、そうであるが故に疎かにはしない方針なので、知らない名前や地味な話題が多い。

 

前回の紙片がはさまっていたという古書は、二木光仁氏著「部隊壊滅!!西部ニューブリテン島  ー佐藤支隊長と父母恩重教ー」(電算出版企画)という、昭和61年(1986年)発行の本。

 

 

父母恩重教は、「ぶもおんじゅうきょう」と読むそうで、コトバンクには「偽教」とされるなどと、ニベもなく言われている。種子島に鉄砲が伝来したころの日葡辞書によれば、父母は「ぶも、ちちはは」と読んでいたと、我が広辞苑にある。

 

副題にある佐藤支隊長とは、著者の上官である捜索第五十一連隊長の佐藤次郎大佐のことで、この連隊長が父母恩重教の教えを一部引用した「人生五十年」という自筆の文書を謄写印刷して、部下全員に配った。その全文が本書の冒頭に載っている。

 

 

昭和61年発行ということは、すでに「戦史叢書第058巻 南太平洋陸軍作戦<4>フィンシュハーヘン・ツルブ・タロキナ」が出版されており、そこからの引用が本文にもよく出てくる。

 

さらに、本書に序文を寄せている防衛庁戦史室・元戦史編纂官の近藤新治氏は、その戦史叢書(58)の執筆者。「序」の中で、「二木さんの御苦労は痛いほど判ります。どこまで真実を書いていいか、一行一行判断を強要されるのが、戦史の記述というものです」とお書きだ。ブログでも筆が滑らないよう、気を付けないといけない。

 

 

おまえの目は節穴か、というのもそのうち死語だろうな。

 

 

上述の第1492回において、最後の段落は戦史叢書からの転載で終わった。これは近藤戦史編纂官が記述したものであり、文中に「米軍海兵隊公刊戦史」が出てくる。そして付録に、出典の固有名詞が載っている。

 

すなわち、「The Campaign on New Britain by Frank O. Hough and John A. Crown」。この資料は単行本として今も古書で売られているが、幸いネットでも読める。そのサイトを紹介し、次に第1492回の最終段落を再掲する。タラセア半島への上陸作戦だから海兵隊だ。

 

 

 

「米軍海兵隊公刊戦史」は佐藤大佐のことを、ニューブリテンにおける松田支隊の戦闘で最も称賛に値する数少ない将校の一人(one of the Japanese to deserve much credit)と讃えている。かくして師団の退却行における後衛部隊は、タラセア半島基部に達した時に潰えた。

 

 

この原文(英語)は、上記サイトの「Long Trail A'Winding」(アメリカの古い流行歌のタイトルで、長い道のりの意)と言う章の、「Sato, Komori & Company」というビッグバンドの名のような項の中に出てくる。ただし、少しばかり字句が異なる。

 

Thus perished one of the few Japanese to deserve much credit for the performance of the 65th Brigade on New Britain.

 

 

文中の「65th Brigade」とは、松田支隊の主力だった歩兵第一四一連隊(福山)を隷下におく第十七師団第六十五兵団のこと。支隊のニューブリテンにおける戦闘実績において、多大なる軍功のあった数少ない日本人の一人は、かくして世を去った。

 

その前段に、担送されてきた将校が、軍刀を抜いて立ち上がった途端に、被弾して斃れたのを米軍が見ている。この米軍は、ガダルカナルに上陸してきた部隊の一つ、第1海兵師団で、一木支隊を迎えうつことになった。ツルブの次はペリリュー、沖縄に転戦している。

 

 

これが佐藤連隊長の最期だった。戦史叢書によると、小森少佐から「老齢」と言われたらしい佐藤大佐だが、著者によると満52歳だったらしい。

 

斃れた場所は明確ではないが、前後の文脈からして、このたび私が渡航する予定のホスキンス岬に向かう日本軍を、米軍が捜索、追撃している途中の出来事であったと思う。「Cape Hoskins」の名が出てくる。タラセア半島の基部にある。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

赤石山脈の冠雪  (2022年11月21日撮影)

 

 

 

 

 

今年の初詣先の一つ 

東京都葛飾区 香取神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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