辰野美術館にて

 

 

このブログを始めたのは2017年。今年で7年目に入る。その年の1月、私は長男の卒業祝いも兼ねて、伯父の戦死地であるテニアン島に、慰霊と観光に出かけた。先の大戦について事前に勉強するにあたり、余りに基礎知識がないため、ブログで書きながら学ぶことにした。

 

当時は戦史叢書も「丸」別冊もNHKのアーカイブスも、その存在すら知らず、「テニアン 戦争」のような検索で調べ事をしていたが、今なお同様の稚拙な検索方法でもよく出てくるのが「平和祈念展示資料館」のサイトの資料。

 

 

東京の「三館」(同館、昭和館、しょうけい館)は、それぞれ一回しか行ったことが無く、田舎者には決して住みやすいとは言い難い東京に居るのに、地の利を生かしていない。同館は別件で新宿のビルに行った際に、昼休みに覗いてみた。

 

引揚と抑留という、年表の区切りでは戦後だが、当時者にはそれどころではない歴史の展示や蔵書にかけては、平和祈念展示資料館がたぶん日本一だろう。一方で、私がネットで探し当てた同館の資料は個人の手記で、一人ずつ記事がアップされている。

 

 

特徴は一兵卒の戦記を読めることだ。今回記事の最後に、ビスマルク諸島ニューブリテン島の戦地だったツルブとマーカス峠からの生還者の回想記を例示する。前回お伝えした渡航予定地ホスキンスは、その文中に出てくる「タラセア」の近くにある。

 

その手記には、タラセアあたりを経由して、ツルブ方面からラバウルまで六十日間かけて歩いたと書いてある。ちなみに隣島のニューアイルランドの長さが、おおむね北海道の宗谷岬から襟裳岬までの距離なのだそうだ。ろくに飯も靴もない行軍だった。

 

 

 

このたび、その現場の調査と慰霊に行くにあたり、追加で調べ事をしようと思い、誰か忘れたが勧められた古書がちょうど古本市場に出たので購入した。書名は次回にご紹介。その本を開いたところ、小さなメモ書きが入っている。書き込みはよくあるが、紙片があるのは珍しい。

 

しかも、書いた人はたぶん怒っている。殴り書きで読みづらいところは想像で埋めて概要を紹介すると、本書の著者はツルブに向かう移動中の三分の一くらいの地点で、「飛行機にやられ」、18年半ばに既に後送され、「ツルブ、ウンギイ島も知らず」。

 

 

著者の所属部隊の捜索第五十一連隊のことを、「捜索51R」と略記しているので、元軍人なのかもしれない。「実際の捜索51Rの戦闘は何も経験せず」、資料を取りまとめた伝聞記に過ぎず、「新事実全くなし、残念乍ら疑問点の解決できず」で終わる。

 

相当ご不満の様子で、たたき売りしたのが私に回ってきたのだろうか。当事者の疑問点の解決に至らなかったのは、まさしく残念でお気の毒だが、戦後生まれにしてみれば、例えば戦史叢書等も、執筆者が戦争経験者でないものは同様の書籍であり、これから歴史を学ぶには有用、不可欠だ。

 

 

復習すると、昭和十八年(1943年)12月に、連合軍が西部ニューブリテンのマーカス岬およびツルブに上陸し、守備隊との戦闘が始まる。本ブログでは、撤退命令が出たあとのことは、正直申し上げて、戦闘場面と比べて簡略にとどめていた。

 

このままでは、現地に行ったとき、夜中に何かに部屋をノックされるおそれがあり、実際、経験者からそれを回避する方法まで教わっている以上、事前準備にも尽力せねばならない。次回から同書を参照しつつ少しでも実態に迫るよう努力する。

 

 

(ツルブ方面の手記)

https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_354_1.pdf

 

(マーカス峠方面の手記)

https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_357_1.pdf

 

 

(つづく)

 

 

 

 

縄文時代の諏訪湖あたりは先進地域  (2022年11月20日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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