ダイサギソウ

 

 

グロスター岬のあるニューブリテン島は、名前が示す通り、当初は英国領、一次大戦後にドイツを放逐し豪州領となった。グロスター岬は英語で、”Cape Gloucester” と書くため、古い資料では「グロセスター岬」と書いてあるものも少なくない。

 

IT器具に発音させると「グロスタ」に近いし、陸軍の戦史叢書(58)もグロスターで表記を統一しているので、それに従う。米軍の戦場名はグロスター岬、日本軍ではツルブの戦い。前回の地図を再掲する。グロスター岬は島の西北端、近くにツルブ村がある。

 

 

 

 

松田支隊は当初、南岸のブッシング岬に兵力の重点を置き、次にグロスター岬・ツルブに移した。ルンガもタロキナもグンビもマーカスも、岬がある地だった。海上空中から見て目立つから、小型の船艇や航空機にとっては、目印にしやすかろう。

 

マーカス岬への敵上陸の後、第八方面軍が松田支隊に発信した命令書が戦史叢書にあるのだが、高射砲に地上射撃をさせて砲の不足を補うとか、患者は東方のガブブに後送し、第一線の負担にならないようにとか、切実だが、戦意は高揚しそうにない。

 

 

マーカスに続き、ツルブも狙われそうだ。実際、連日100機以上の敵航空部隊が来襲し、ツルブの飛行場から兵站基地のナタモに至る、海岸線の相貌を一変させる熾烈な銃爆撃を行い、海岸沿いの日本軍の施設・設備を「著しく破壊」した。

 

ラバウルも連日の空襲を受け、昭和十八年(1943年)12月25日には、カビエンの基地が敵機動部隊の攻撃を受けた。ラバウルからツルブへの駆逐艦輸送は中止され、中間点のガブブまで送り、その先は陸上輸送。今となっては陸路も安全ではない。

 

 

12月26日未明、ナタモは突然の熾烈な艦砲射撃を受けた。手元に、このときナタモにいた元陸軍軍人の手記があるので、後の回に参照する。艦砲射撃の報に接した松田支隊長は手持ちの予備、第五十三連隊第二大隊に出撃を命ずる。

 

このころの松田支隊は、その防備の地区に関し、グロスター岬から南北の線を引き、その東側の部隊を「右地区隊」、西側を「左地区隊」と呼んでいた。右の地区隊長は山砲工兵第一連隊長の織田勝大佐。左の隊長は歩五十三の連隊長、角谷弘毅大佐。

 

 

間もなく右地区の織田隊長から、ナタモ付近に敵が上陸したとの報告があり、さらに左地区の角谷隊長からも、タワレ付近に敵上陸の報があった。後者のタワレは上図でいうと、タラウェ山の西方の海岸にある。ツルブの東と西に、敵は同時に来た。

 

コード・ネーム「沼の狐」、松田支隊長は地形等の情勢から、連合軍の主力はナタモ方面と判断し、各部隊への命令下達および方面軍・師団司令部への報告を行った。項目の多い命令書だが、次の一文の切れ味がよい。

 

支隊は速に全力をツルブに集中し、まず主力をもってナタモ付近の敵を撃破せんとす

 

 

 

 

この命令に項目が多いのは、遠方のブッシング、目前のタワレに敵が上陸している左地区隊、ダンピール海峡に浮かぶウンボイ島の部隊など全てに、ナタモへ進めと命じているからだ。ナタモ付近の高射砲隊や道路隊は、右地区隊長の指揮下に入る。

 

東方のガブブに在る上位組織の第十七師団司令部は、事前に、戦闘は第十七師団の判断に任せるとの方針を明確にしている。支隊からの報告を受けた師団司令部は、その方針に変化なし、支隊主力をツルブ付近に集中せよと、支隊の作戦を支持した。

 

 

ナタモがある右地区隊では、連日の空爆と当日未明の艦砲射撃により、舟艇基地を粉砕されたほか、人員、高射砲ほかに多大な損害を受け、舟艇約50隻を喪った。加えてツルブ正面への上陸を想定していたため、ナタモでは奇襲を受けたかたちとなった。

 

このため、「連合軍に容易に地歩の獲得を許した」。米軍資料によると、上陸部隊の海岸達着は12月26日午前7時45分、「日本軍の応射はなかったという」。次回は、前出の予備隊、歩五十三の第二大隊の出撃の様子。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

向島百花園の萩のトンネル  (2022年10月1日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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