虫の季節もそろそろです。

 

 

これまで陸軍の戦史叢書(58)には、ツルブ地区、ツルブ方面といった用語が用いられているのを見てきた。これらはツルブを中心とする広域を意味し、次の地図の全域と言ってもよさそうな気がする。

 

実際、第十七師団が兵力を配置したのは、この地図でいうと、丸っこい半島の北東端にあるツルブ、グロスター岬。その南東側(右下側)にあるナタモ。南側の海岸にあるブッシング岬(地図の右下端)の、以上三か所が資料に載っている。

 

 

 

 

南岸のブッシングは、むしろマーカス岬やガスマタとの並びにある位置で、最初のうち日本軍は、連合軍がニューアイルランド島の南岸を、南側から攻めてくるだろうとの観測により、当初、ツルブ方面の松田支隊はブッシングを重視した。

 

一方でツルブの名が、この区域の代表格として出ているのは、この地の沿海のみリーフがなく、かなり大型の船舶でも泊地として利用できた。そして、機動用の飛行場もある。機動用の説明として、主に小型機の整備や不時着目的で利用される。

 

 

 

ただし、この時期、すでに友軍機の利用は皆無という状態になっていた。他方で、支隊の要城ブッシングは、敵機の空襲が余りに激しくなったため、昭和十八年(1943年)10月に、松田支隊は兵力の重点をブッシングからツルブに変更した。

 

そしてツルブの支隊司令部は、飛行場を利用しない以上、そこにあった高射砲部隊を、上記ナタモに移して防空担当とし、ナタモを揚塔の基地とした。10月21日、支隊司令部は、半島の内陸中央にあるナカロップに移動した。

 

 

ナカロップは上図にあるが、ちょっと探しにくい。この半島にはタラウェ山とタンギー山という二つの山があり、等高線でわかるようにコニーデ式の「死火山」。その鞍部の東側にナカロップがあり、各所の要地に繋がる道がある。

 

この配置換えにおいて、ツルブからナタモへは、野戦病院や船舶工兵部隊も移動した。すなわちナタモを兵站拠点とし、ツルブに新着の歩兵第五十三連隊(鳥取)の第二大隊が防備の主力となり、ツルブ飛行場の西側に連隊本部を置いた。

 

 

ラバウルの第八方面軍は、マーカス岬への敵上陸の直後の12月17日、補給困難には対応できないとみて、「フィンシュ奪回の企図を放棄し」、ニューギニアの第十八軍に対して、シオ付近での持久戦に移行するよう命令を下した。

 

さらに、北にあるニューアイルランド島に派遣する予定だった独立混成第一連隊をラバウルに留めおき、第三十八師団の指揮下に置いて、ラバウル付近の要地を更に強化した。

 

 

連合軍はアメリカのアラモ軍が上陸担当で、当初計画におけるニューブリテン島の上陸地点は二か所。このうち、南岸のガスマタはマーカス峠に変更になったが、ツルブ上陸作戦は最初から変わっていない。日米ともに概ね同じ地区を主戦場に選んだことになる。

 

ツルブとラバウルに対する連合軍の空襲はますます激しさを増し、日本軍の搭乗員の疲労が急増していたとある。対岸のニューギニア島フィンシュハーフェンでは、第二十連隊がワレオの地に踏みとどまって奮戦中だった。そして、クリスマスの翌日を迎える。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

アシハラガニ  (2022年10月3日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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