連合軍のアラウエ(マーカス峠)の上陸については、ここしばらく個人の手記を先行させてきたが、今回より陸軍の戦史叢書、続いて海軍の戦史叢書に移る。かつて何度か、同じ戦闘で陸海両方の戦史叢書を読み比べるのは大変だと愚痴った。

 

尤も米軍資料の場合、陸海に加えて海兵隊のも読むので更に大変。だがもうガダルカナルの撤退作戦以降は、戦史叢書にも敵さん資料があるので、それを使っている。なんせマッカーサーの部隊関連は、読むなら豪軍の資料も読まんといかん。

 

 

また、戦史叢書には、当時の記録が無いという記載が多いことにも触れた。少なくともこの時期、残っている資料は詳細なので、記録を作るのをさぼっていたのではなく、敵襲で焼失したり、船ごと沈んだり、終戦時に処分したりの結果だろうと思う。

 

マーカス岬については、記録がけっこう詳しい。以下のとおり地図もある。改めて、岬の位置はニューブリテン島の南岸中央。連合軍が作戦名にした「アラウエ」は二か所にあり、一つは岬の沖にある島の名。もう一つは岬の東方にある飛行場の名。

 

 

日本陸軍は、この方面に400名の兵員を置き、例によって少人数を分散配置した。配置場所は4か所。(1)同方面の先陣の主力たる福島中隊(歩兵第百十五連隊・臨編第一中隊)の本隊と二コ小隊、そして海軍警備隊は「ベンガル方面」。地図の岬の右側に「ウッティンガル(ベンガル)」とある。断崖の切れ目だろうか。

 

このほか、(2)マーカス岬突端に福島中隊の一部。(3)アラウエの「飛行場付近海岸」に三品中隊本部と一コ小隊。(4)「ワカ正面」に三品中隊の一コ小隊。ワカは飛行場より更に東。北岸に抜ける通路があるディディモップに一番近い。

 

 

この兵員で、しかも臨時編成だから、土工器具をほとんど持たず、「地形を選んで火器を配置する程度」。つまり殆ど置いてあっただけのようで、敵攻撃が始まると、すぐに壕も武器もふっ飛んでしまった。何のための配置なのだろう。見張りだけ?

 

敵襲は上陸前日の昭和十八年(1943年)12月14日、「早朝からの激しい空襲で、マーカス岬一帯は爆炎に包まれていた」。ただし、艦砲射撃は行っていない。翌15日、福島中隊の本部と海軍警備隊が守る「ベンガル正面」に舟艇が接近してきた。

 

 

日出前とはいえ、甘く見たのか、やってきたのは15隻のゴムボート。午前3時ごろ、ベンガル正面の日本陸海軍はボートの騒音に気づき、緊急配備についた。引き付けておいて一斉射撃。複数のボートが沈んだ(米軍資料によれば2隻)。対空用の海軍十三粍機銃の射撃がきわめて有効であった由。

 

ゴムボート船団が撃退された米軍は、艦砲射撃を開始し(事前に海軍の偵察機より、敵駆逐艦四隻との報告あり)、日本側の「ベンガル正面」は壕も兵器も破壊されて密林内に撤退した。マーカス岬突端も、激しい銃爆撃に圧倒され、ベンガルの本部との連絡は途絶し、少数のみ撤退してきた。

 

 

 

 

米軍は武装した上陸用のトラック車、LVT2隻を先頭に上陸してきた。米軍資料によれば連合軍は、来るべきラバウルの攻略に備えて、兵力は温存する方針であったとのことだから、この時点でもまだマッカーサーはラバウルの攻撃と占領に未練がある。

 

中野中隊の本部ま正面に上陸地点を定めてきたのは、事前に詳細な航空写真を撮影し、日本軍の配置を把握していたからというから、その解析結果に拠るものか。この先のあらゆる上陸作戦で、きっと同じことが起きただろう。

 

 

中野中隊は、飛行場方面の守備についていた三品中隊の主力を呼び寄せたが、連合軍は歩兵ニコ大隊、砲兵一コ大隊等の多勢。衆寡敵せず、先陣の中野中隊は、やがて来るであろう主力の小森大隊と合流すべく、東方プリエ河口付近まで退いた。さらに内陸側のディディモップまで移動し、翌16日に小森大隊と合流する。

 

米軍上陸の急報は、次回にて補足するが、海軍はマーカスの警備隊からラバウルの南東方面艦隊に届いた。一方、陸軍はその後さらに、第八方面軍からウェワクの第四航空軍に転電されている。海軍には、加えて水偵からの敵船団発見の事前情報もあったが、ニューギニアの陸軍航空部隊は、上陸後に初めて新戦場の位置を知った。

 

 

(つづく)

 

 

 

赤とんぼは種類が多くて区別できない  (2022年9月13日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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