葛西臨海公園のアカテガニ 三浦半島にも棲息

 

 

うちの実家が静岡なので、心配してくださる方々がおみえです。ありがとうございます。水害と断水で苦しんでいるのは清水区で、実家は隣の区。そして清水側より、ほんの少し標高が高い。浸水被害はありませんでした。

 

高校生のときの七夕豪雨でも、実家から100メートルほどのところまで、川から氾濫した水が来て止まりました。なお、実家の被害は約10時間の停電のみ。それも夜と重なったため、ほとんど不便はなかった模様です。以上、報告です。

 

 

これから本ブログは、昭和十八年(1943年)終盤のビスマルク諸島ニューブリテン島が舞台となります。いつものように地理の勉強からスタート。同島東部には、ラバウル、ココポ、ズンゲンなど、これまで何度も出てきた地名があります。

 

他方で西部は、これからです。繰り返すと、この島の西端がダンピール海峡に臨んでおり、その反対岸にニューギニア島フィンシュハーフェンがある。この両方の地が、この年の後半、戦場になった。日本軍は海峡の制海権を失い、兵站線が切れた。

 

 

 

戦史叢書(58)より、同地域の要図を拝借します。これからの戦史に登場する地名と、その位置を確かめておきます。左端(西側)にウインボイ島があり、図の外ですが更にその左にフィンシュハーフェンがあるという位置関係です。

 

ニューブリテン島のほぼ西北端に、グロスター岬があり、連合軍はこの地名を用いていますが、日本側は岬の付け根にあるツルブを戦場名としていたようです。実際に連合軍が上陸したのは、両隣にあるナタモとタワレ。挟み撃ちでした。

 

 

ツルブの前に上陸を許したのが、南岸になるマーカス岬です。この図では、島の北岸と南岸を結ぶ南北の道が二つあり、一つがツルブとフィッシングの間、もう一つが北岸イボキと、マーカス峠に近いディディモップの間。マーカスの守備隊は後者を撤退します。戦場名は、日本軍がマーカス岬、連合軍はアラウエと呼ぶ。

 

南岸の右のほうに、ガスマタという地名があり、こことツルブに飛行場がありましたので、上陸以前からときどき戦史に地名が登場します。最後に、北岸の右のほうにガブブという地がある。以上が、日本軍の拠点であったり、連合軍の上陸関連であったりの主な地名です。

 

 

連合軍の攻略を受けたのは、時系列でいうとマーカス岬、ツルブ、ズンゲンです。今回は先を急がず、敵上陸作戦の前史に触れます。またも道路工事の話題が出てくる。ラバウルとツルブを結ぶ海岸沿いの道路を構築し、ツルブに飛行場も設営するという作業計画が立てられた。

 

日本軍がツルブに拠点を置いたのは、ガダルカナル島からの撤退計画が決定する直前の昭和十七年(1942年)12月13日であったと、雑誌「丸」別冊「空白の戦記」に収録されている太田庄次氏著「ニューブリテン島の全般作戦」にあります。著者は元第八方面軍参謀・陸軍中佐。

 

 

アシハラガニ 泥に穴を掘って棲む

 

 

道路建設の目的は、ニューギニアへの陸上輸送です。ガダルカナルの失陥にともない、日本軍は南洋方面の主戦場を、ソロモンからニューギニアに切り替えました。そしてこれまで海上輸送が中心でしたが、いずれダンピールには敵が来るだろう。

 

主としてラエ・サラモアへの補給のため、ニューブリテン島の北岸・南岸には、鼠輸送、蟻輸送のための小舟艇の仮泊基地の整備を進め、同時に道路建設するという方針の下、第三十一野戦道路隊がツルブに派遣されたのが、上記の12月13日。

 

 

翌年の3月、第八十一号作戦(ラバウルからラエへの船団輸送)は、「ダンピールの悲劇」に終わってしまった。甚大な被害が出て、船団輸送は以後、「まったく不可能となった」。駆逐艦輸送も5月には中断し、それ以降は大発による舟艇機動のみ。

 

島の南岸は沿岸警備が強化され、ガダルカナル帰りの第三十八師団より、主にガスマタには歩兵第二二八連隊(名古屋)、ズンゲンには歩兵第二二九連隊(岐阜)が増派されました(以上は大雑把な既述、三十八師については後述)。海軍も飛行場の対空装備等を強化します。

 

 

今回は上記の道路工事の顛末をもって締めくくります。第八方面軍は、第五十一師団の歩兵第五十六連隊(宇都宮)や工兵第五十一連隊に、この道路建設工事を命じました。輜重車が通る道路を三か月で完成する計画。「しかし、この判断は甘すぎた」。

 

そもそも原住民が歩く道さえ、村落の近くにしかない。人力作業に頼る日本軍の工事では到底無理で、まもなく工事は中止になった。ラバウルはドイツやオーストラリアが時間をかけてインフラを整備した例外中の例外です。かくして兵はまたも歩く。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

迫力のクロベンケイガニ  (2022年8月31日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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