本日の写真は葛西臨海公園

 

 

そろそろ昭和十八年(1943年)の日本でいえば秋、ビスマルク諸島の戦局に入ります。去年、私が入会した全国ソロモン会は、陸軍の第十七軍及び海軍の第八艦隊の戦友会が母体になっており、すなわち陸はソロモンだけではなく、ビスマルクも含む。

 

この年の秋、日本政府は歴史に残る決断を二つしている。一つは既述のとおり、同年9月末、それまでの我が国の戦域構想とでもいえばよいのか、「大東亜共栄圏」がいきなり、いわゆる「絶対国防圏」になった。

 

 

同月、東條内閣は「現状勢下における国政運営要綱」を閣議決定し、翌10月、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」という勅命が出た。詳細な制度変更であるが、これで「学徒出陣」が始まった。なお、学徒勤労動員は大東亜戦争の前から始まっている。

 

勤労動員は主に経済活動に従事するものであり、一方で、学徒の出陣はそれまで二十歳前の学生には猶予されていた、懲役検査の猶予を取りやめた。学徒出陣は同月内に第一回壮行会が行われている。この国は未来を食い潰し始めた。

 

 

そのころ、ラバウルほかビスマルク諸島方面はどのような情況になっていたか。先般買った古書、「実録太平洋戦争3」(中央公論社)より、二つの回想録を参照する。この第3巻の副題は、「アッツ玉砕からインパール壊滅まで」。

 

全部で三篇あり、最初が「悲劇の島々」、次が「ラバウル航空隊」、最後が「インパール」。第二編「ラバウル航空隊」のうち、一つはニューギニアが舞台(吉原矩参謀長著「南十字星」)。今回より、残り二つの航空隊関連を取り上げることにした。

 

 

今回はその第一で、斎藤皐一氏著「ラバウル海軍航空隊」(なお、もう一つは陸軍航空隊)。著者紹介欄に、「当時ラバウル航空隊所属 海軍報道班員」とある。「報道班員」というのは正式名称で、大本営の陸海報道部に所属する作家や写真家。

 

一般に従軍記者という言葉は、少なくとも現代、民間の報道機関の特派員やフリーランスも含んで使われていると思うが、上記のとおり先の大戦時、報道班員は軍隊組織の内部にいる。兵隊を育て報道担当にするのではなく、いきなりプロをお招きする。

 

 

斎藤氏がどの社の所属だったのかは不明。ともあれ本ブログでは、ときどき作家など、軍人経験のない人の文章を読む。別の視点から見た戦場の様子が伝わる。さて、本文は「ラバウルに着いてから今日で三日目になる」と始まるが、その日付が無い。

 

私はこの記録から、まず彼我の戦力比較を試みようという野心を持っているのだが、時期が分からないと困る。判断材料としては、すでにP-38がラバウル上空を飛んでいる。滞在途中の記述に、十月の二十七日や三十日という日付がある。

 

 

そして、文中の複数個所に、このラバウル等への空襲の激しさからして、連合軍は

そろそろブーゲンビル島か、このニューブリテン島に上陸してくるのではないかという会話が出てくる。

 

タロキナ上陸は11月1日。やはり、この「秋」だ。本書の巻末の年表に、「10月12日、連合軍機、ラバウルに来襲」とある。著者は三日たっても配属先の部隊が決まらぬまま、最初の空襲体験をした。上空に花火の開くような音。

 

 

作戦室で話をしていた航空参謀は、落ち着いていればよい、慌てるなと声をかけつつ、「電探によると、今日のは相当多いそうだ」と不気味なことも言う。参謀の名前が分からないが、こういうエピソードの持ち主。

 

成都の敵飛行場爆撃の際には、単騎敵飛行場に着陸して、敵の銃砲火をあびながら燃料庫に火を放ち、呆気にとられている敵兵を尻目に再び愛機に飛び乗って、悠々と帰投した。

 

 

成都か。趙雲子龍のような人だ。この少佐参謀と居ると不安を感じることもなく、参謀はやがて「さて、出ようかね」と述べ、廊下を歩き庭に出て、防空壕の階段を下りてゆく。味方戦闘機が敵を追って上空を飛ぶ。「そのあとから零戦が弦を放れた矢のように飛んで行った」。

 

このあたりまでは、先ずは一見のどかな戦地の風景。ちょうどこのとき、著者の配属先を決める地位にある司令官の酒巻中将が、ゆったりとした歩調で近づいてきた。このブログに出てきた酒巻さんなら、南東方面に海兵隊が攻めてきたころの第十一航空艦隊の酒巻宗孝参謀長。この時期は第二十六航空戦隊の司令官。

 

 

 

ダイサギとアオサギ

 

 

酒巻司令官によると、今日の敵は約200機。味方の戦闘機は60機。著者はこの数の差に不安を感じながら聞いているが、司令官は「敵も必死だね。二百機という数で、このラバウルを攻撃しようとう敵の意図も分かるが、その敵意も侮れない」という。

 

航空参謀も、60機は相当な数なのだと語り、「あとで結果を聞き、搭乗員の話を聞いてみたまえ、その感想を聞かせてくれ」と著者にいう。上空にアホウドリのようなコンソリB-24、直掩はP-38。近くに爆弾が落ちてきた。少し話が違わないか。司令官は、「海辺の飛行場を狙った編隊だ。飛行場に近いから壕に入ろう」という。

 

 

著者はあわてて防空壕に入り、耳に手を当てた。空襲警報は一時間半ほどで解除された。小型の輸送船が、湾内で燃えている。司令官によると、主戦場のソロモンとニューギニアのことも併せ考えると、ラバウルに200機を飛ばすとなると、敵の手持ちは千数百機もの余裕があるだろうという。

 

特にブインへの空襲が激しい。ブーゲンビル島に上陸して来るかもしれない。ついては、「腰を落ち着けて、今日からの戦局の成り行きを注視し、なぜこうなったかの原因をよく認識し、報道してもらいたいのだ」。

 

 

通信参謀が部屋の入口に現れ、「味方の損害は自爆十四機であります。小型輸送船は沈没しました」と報告し、飛行場は何の以上もありませんと補足した。14機もの損害に顔色を変えた著者に、司令官はこういう。

 

飛行機はいくらあっても足りぬ現状だから、十四機の犠牲は大きい。それで動揺していては、ソロモンの戦線では生活できないのだ。君は若いから無理はないが、君などよりはもっと若い搭乗員も一緒にやってきた戦友の自爆を聞いても、人目のあるところでは決して態度にあらわさないよ。

 

そして、「お互いにこの苛烈な戦争を通じて修養しよう」と付け加えた。著者は27歳。この現実に言葉もない。そして、山本元帥の言葉の断片、「今どきの若いものなどとは申すまじく候」を脳裏に思い浮かべた。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

コサギとホシゴイ(ゴイサギの幼鳥)

(2022年8月27日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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