鳩の生る木

 

 

連合軍が日本の軍用機につけたコード・ネームは、何か法則性でもあるのか、零戦がクロード、紫電改がジョージで、男性名になっている。今回より、その両者に乗った海軍の搭乗員、「本田稔空戦記」岡野充俊著(光人社NF文庫)を参照する。

 

この本はずっと前に、主として彼の出陣までの箇所と、最後の原爆の話題について、かなり長く記事にした。ただし、ラバウル方面のことはなぜか殆ど触れていなかったので補記する。なお本書は本田さんの証言を、岡野さんが編纂したもの。

 

 

クロード・モネのマネ

 

 

かつて参照した当時、本田氏はご存命であったが、昨年亡くなられた。ご冥福をお祈り申し上げます。私は個人を敬称略にすることが多く、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれない。だが性分なので、このまま続ける。

 

呼び捨ては敬意をこめてする場合と(黒澤明とか手塚治虫とか)、悪意をこめてする場合があるが、文脈でお分かりいただけると思う。前回は坂井三郎、今回は本田稔。坂井は本田の7歳年上。

 

 

とはいえ、当時の搭乗員はみんな似たような学歴、戦歴になるものか、本田も霞ヶ浦海軍航空隊、大村空、台南空、南方戦線、そして南東方面と、途中までよく似た道を歩んだ。本田の南方における初陣や初戦果のことは、前に触れているので省略。

 

南東方面に進出したころの彼は鹿屋空の所属で、まず印度洋作戦から移動し、比国ダバオに着いた。このときは既にラバウルに征くことを聞いていたはずなのだが、坂井のような驚きや戸惑いには触れていない。以下はダバオからの出陣と航海の模様だが、なぜか坂井先輩と待遇が異なる。

 

 

このダバオに艦隊が集結し我々零戦隊は空母「大鷹」に着艦した。この「大鷹」は一万七千トンという軽空母で、かつて北米航路に就航していた春日丸を改装したものであり、もっぱら輸送業務に従事していた。こうして巡洋艦、駆逐艦の護衛を受けながら艦隊はトラック島に向かった。

 

トラックに到着したのが「昭和十七年六月下旬」とあるので、ミッドウェー海戦は終わっており、これで同じ船だと思われる「春日丸」にも警備が付いたものか。坂井のラバウル入港より二か月ほど後のことだ。

 

 

もっとも二人は、トラックからの経路が異なり、本田たちはラバウルに直行せず、ニューアイルランド島のカビエンに寄っている。このカビエンに各地から戦闘機隊が集結し、編成替えがあって、彼は鹿屋空から離れ二五三空に編入された。

 

本田がこのカビエンに滞在中、ガダルカナルへの米軍上陸、三川第八艦隊の夜襲敢行があり、この戦局の急変に連動して、続々と航空隊が送られてきた。「ここに強力なラバウル航空隊が確立されたのであった」。

 

 

もっとも訓練生時代の同期十数名のうち、実戦経験を持つのは彼だけだったと語っている。そのためか、指定席だった三小隊三番機から、二小隊二番機になった。何時カビエンからラバウルに移動したのか日付が書いてないが、勿論すでに「ガダルカナル島攻撃」は始まっている。

 

空から見たラバウルは、シンボルの花吹山という丸裸の島が煙を吐いており、シンプソン湾は「さざ波一つ立たず、まさに鏡のごとく、しかも深々と澄み切っていた」。明鏡止水。一行は火山の麓にある東の飛行場に着陸した。

 

 

わが家のハイビスカス

 

 

東西の飛行場のうち、大きいほうの西飛行場は、陸攻隊が使用している。彼ら戦闘機隊の東飛行場は、「東西に延びる長方形の運動場のようなもので地肌の出た粗末なものであった」。搭乗員の宿舎は、大人でも通れるほど縁の下が高い、南方独特の建物。彼のラバウルの評価もあまり芳しくない。

 

今まで東南アジアのしたたるような美しい緑、豊富な果物などいわばパラダイスにいた我々にしてみれば、このラバウルというところは全島茶褐色というところで全く愛想のないところであった。

 

形ばかり大きくて馬にでも食わせるような、さしてうまくもないバナナが少々あるだけで、その他果物らしいものはほとんどなかった。その中でハイビスカスの花だけが我々の心を和らげてくれる唯一のものであった。

 

 

これまで居た南方が、戦場にしては居心地が良すぎたのかもしれない。また、ここで多くの戦友を喪った気持ちは、戦後いつまでもぬぐえないのだろう。そして、このラバウルでさえ、水木しげるには羨ましいほど食い物のあるカナンのような地だった。

 

他方、この荒地も本田にとって、「夜になると南太平洋ならではの美しさが数々あった」。源氏蛍の数倍もありそうなホタルが、音を立てるかのように一斉に明滅する。済んだ夜空には数々の星々が散らばり、南十字星がちょっと首を傾げたように斜めに輝いている。

 

 

航空部門は南方と異なり世帯が大きく、数々の部隊が集結していた。ラバウル航空隊は正式な組織名称ではない。坂東武者や瀬戸内水軍みたいな表現。その日その日の総指揮官は、二〇二空、二五一空、二五二空、二五三空などの長が交代で務めた。

 

ラバウルに到着した翌日の夜、次の日の攻撃隊指揮官である中島正少佐より訓示があった。「細かい注意だった」が、特に指揮官が強調したのは、「目的は、ガ島周辺に群がる敵艦船と飛行場の攻撃に向かう中攻隊の護衛である」。

 

 

撃墜王とは戦闘機好きが好んで使う勇ましい敬称だが、敵を何機墜とそうと、本来の目的が味方の爆撃機や船舶の護衛であるならば、それらに大きな損害が起きてしまったら作戦は失敗、戦闘機隊は評価されない。本書では海軍甲事件が後に出てくる。

 

以前も書いたように、英語でも戦闘機はファイター、駆逐艦はデストロイヤーだが、本来、攻撃は最大の防御であるという格言を体現しているようなものだろう。「本来の任務を忘れて勝手な行動をしてはならない」と指揮官は繰り返した。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

今年のうちのバルコニーは、朝顔がよく咲きます。

(2022年9月6日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.