引き続き、坂井三郎「大空のサムライ」を参照する。何年か前に「ゼロ戦」と口にしたところ、「れいせん」と読むように言われたことがある。でも子供のころから「ゼロ戦」だったし、れいせんというと、あの忌まわしい冷戦を思い出すので苦手。

 

一方で、子供のころの漫画雑誌などで、本当かどうか知らないが、敵性語だということで野球のストライクが「よし」、ボールが「だめ」と言い換えられたなどと聞いていたので気になる。しかし、野球自体が敵性娯楽ではないか。

 

 

堀越二郎も坂井三郎も、戦後の著書だが、ゼロ戦と書いているので、強力な反証、反論が来ない限りゼロ戦と読むことにする。書くときは零戦のままだから、悩まなくてよい。坂井が訓練を終わり戦場に征ったころ、まだ零戦は登場していなかった。

 

本人がそう書いている。著者は昭和十三年(1938年)の初夏、追加の専門訓練を受けたのち、台湾の高雄航空隊に配属され、そこから更に中国大陸の九江に派遣されて、第十二航空隊に転属となった。わが伯父の最初の出征の前年にあたる。

 

 

この当時、大陸中国に進出していた海軍戦闘機隊は二隊のみで、中支の第十二航空隊と南支の第十四航空隊。坂井三郎は前者に配属された。日華事変の勃発直後から、すでに約一年の戦歴がある。そのころ主な攻撃目標は漢口だった。武漢三鎮の一つ。

 

漢口の敵はほとんど逃げ去っていたそうだ。ある日しばらくぶりの漢口空襲が発令されたとき、彼の名が指揮所の黒板に書きあげられた。それまで偵察や地上攻撃は経験済みであったが、空戦の作戦参加は初めて。気分が高揚する。

 

 

今この黒板に参加者の名を書いている指揮官相生大尉の三番機。親友で同期の宮崎義太郎三空曹も出る。出発は翌朝。乗機は「脚の出たままの九六式艦上戦闘機」。この機種の後継が零戦。

 

漢口の飛行場はレンガ造りのような色をしていて、上空から眺めていると、そこに赤い砂が巻き上がった。三機が離陸したらしい。空戦になるという実感がどうしても湧かぬまま飛んでいると、自機の翼下を真っ黒いずんぐりした影が通り抜けた。

 

 

敵さんは中国空軍の主力戦闘機である「イー16」。ソ連製の単座戦闘機「ポリカルポフ I-16」の、ずんぐりした胴体の写真が載っている。こちらは「引込脚式」で、その脚が見えない二機の後ろ姿が、ふと気が付くと目の前に見えた。

 

隊長機から決して離れるなと厳しく言われていたのに、いつの間にか追い抜いてしまっていたらしい。前方に暗雲がたれこめている。逃げるつもりかと思ったとたん、追いついてきた隊長機を再び引き離し、七・七ミリ機銃の発射把柄を握って引いた。

 

 

最初の実弾発射のときは皆、この飛行機を撃っていいのだろうかという良心の引き留めを感じると書いている。でも引いた。だが銃弾が出ない。さらに引いたが出ない。原因は離陸前の点検時に、半装填の弾丸を全装填にするのを忘れていた。

 

どういう操作でできるのか知らないが、機内にいたまま全装填に切り替えた。相生指揮官は初心者があわてているのが分かったのか、一連射の威嚇射撃を行い、左に逃げた敵が、坂井機の真ん前に出た。ここで、ようやく引き金を引き直した。

 

 

水平飛行に移ろうとしていた敵機に、「弾丸が当たったらしい」。黒い煙を上げ、機種を下げて落ちて行った。気が付くと一面の青空に敵も味方もいない。そのころ同期の宮崎も同じように、単騎、敵を追って一機を撃墜した。急ぎ味方に合流する。

 

あとで聞けば、指揮官や先輩たちは、二人の機にもしものことが起きないよう、取り巻いて攻撃準備に入っていたらしい。新人二人は手柄を褒められるどころか、相生隊長に「身の程知らず」と散々に叱り飛ばされた。

 

 

宮崎義太郎三空曹は敵13機を撃墜した時点で、昭和十七年六月、モレスビーにて戦死。坂井の本書も点鬼簿のように、還らぬ人となった戦友たちの名が次々と記されている。昭和十五年の7月、著者は内地勤務に異動となり大村航空隊に帰った。

 

そのころ、横空では「十二試艦戦」という新鋭機のテスト飛行が最終段階を迎えており、やがて「零式艦上戦闘機」の正式名を得て、大陸に渡っていった。零戦は坂井が本土にいる間に、初陣(会敵せず)、重慶上空の快勝と戦歴を重ねていった。

 

 

ようやく再び高雄航空隊の一員となり、台湾に飛んだ。ここで始めて乗機に零戦が加わった。坂井三郎は零戦の性能に関し、特にその航続距離の長さを高く評価している。後にその零戦をもってしても、ガダルカナルは遠い島だった。

 

彼が大陸に再進出した昭和十六年の秋、高雄のすぐそばに新設工事中だった台南基地が完成し、部隊名も「台南航空隊」となった。零戦92機、神風偵察機(九八式陸上偵察機)12機を擁する新部隊が発足した。台南空の初代司令は、斎藤正久大佐。

 

 

 

同年12月に入ると、神風偵察機が毎日のように南方に飛んで行くようになった。任務は機密であったが、比国近海における敵空母の探索だったらしい。戦闘機隊も常時、即時出撃の態勢で待機していた。

 

12月8日午前2時、「真新しい下着に着替え、洗顔もそこそこに、戦友たちとともに戦闘指揮所に向かった」。暗闇の中、懐中電灯を振りながら、整備員が出撃前最後の仕事にいそしんでいる。おむすびが出た。美味しい。発進は4時の予定だった。

 

 

黎明を期してマニラを急襲する計画だったのだが、しかし誠に運悪く、「五メートル先も見えないような濃霧」が出てしまい、出撃は順延されてゆく。指揮所内に情報が出て、「午前六時、味方機動部隊はハワイ奇襲に成功せり」。歓声が上がった。

 

だが、すぐにみな不機嫌になった。先を越されてしまったのだ。その憎き霧も9時過ぎにやっと晴れて、「葉巻型爆撃機」の一式陸攻との戦爆連合は、フィリピンのクラーク・フィールド飛行場を目指す。

 

 

上空に敵機が5機しか見えない。戦闘機隊は油槽を落として、臨戦態勢に入ったが、敵機は接近して来ず、空戦が起こるまえに一式陸攻が二波、襲撃し飛行場を爆撃した。爆撃隊の錬成のたまもの、「全弾命中!」と書いている。

 

空戦はそのあとで起き、坂井機は米軍のP-40を一機、墜とした。また、飛行場の滑走路付近にあった「空の要塞」B-14を、友軍機とともに、二十ミリで銃撃している。この日、真珠湾の速報を聞いて、敵さんは日本軍の襲来を予想して上空で待っていた。

 

 

ところが、なかなか来ない。台湾の濃霧のせいだったのだが、知る由もない。それに、台湾から比国までの長距離を日本軍の戦闘機が飛んでくるとは予想していなかったと、戦後、元米軍軍人から聞いた。

 

このため、米軍機はいったん着陸していた。これが仇になった。それにしても、空の要塞は、「われわれがこれまで中国大陸の戦線でみてきたどの敵機よりも巨大すぎる」、「図体がバカでかい」相手だった。

 

坂井三郎は機銃掃射を始める前に、「こんな大きな飛行機を壊してしまっていいのだろうか」と思ったそうだ。人間、高い空を飛ぶと、いろいろ不思議なことを考えるらしい。

 

 

(つづく)

 

 

 

千鳥ヶ淵の空  (2022年8月17日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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