カワセミのあくび、スズメの後ろ姿

 

 

しばらく戦史叢書から離れ、個人の体験談を幾つか読む。手元の関連資料はラバウルとあって、航空関係が多い。前にも苦手と申し上げた分野だが、一因は何せ当時の軍隊には陸軍と海軍しかなく、頼りの戦史叢書も殆どその区分けになっている。

 

部隊の数も多い。空を飛ぶので当然なのだが、よく移動するから、基地や編成地のような地名という取っ掛かりも少ない。文字情報から入る私の勉強にとって、難題が多い。全体像をざっと眺めることが難しい。しかし、どうしようもない。

 

 

では文句は以上にして、本題に移る。まず地名の取っ掛かりっがあるものから始めることにした。台南空とラバウル。台南市に在った台南海軍航空隊は、もしかすると台湾沖で戦死した親戚の海軍軍人が所属していたのかもしれないが詳細不明。

 

良く知られた回想記から始めよう。坂井三郎著「大空のサムライ」(講談社+α文)。この本はずっと前に、昭和十七年(1942年)8月7日、ツラギ・ガダルカナル方面に出撃した前後を読んだきりになっている。

 

 

最初のほうから目を通す。写真と地図が多いのは初学者にとって、たいへん助かる。そして内容は、決して敵をたくさん撃ち落して喜んでいる粗野な文章ではない。本文の前にある献辞は、「還らざる私の戦友と、私が仆した敵空軍の戦士に捧ぐー」。

 

還らなかったのは戦友だけではなかった。著者は四人兄弟で、陸軍戦車隊で満州にいた長兄は抑留生活が原因で帰還後に病死。三男はビルマで戦死した。ただでさえ危険な飛行機乗り、大戦争が始まったため、親戚は真っ先に三郎が死ぬだろうと言っていた由。

 

 

天翔ける夢を育んだきっかけは、佐賀の「わが村から出たただ一人の海軍兵学校出の海軍士官」である平山五郎大尉。坂井が中学を退学させられ、実家で田植えをしている上空を、飛行艇で旋回してゆく。大正時代の「F5飛行艇」の写真が載っている。

 

それを眺めては「一番早いものはあの飛行機」だと憧れてみたものの、学業不振の中学中退ではどうにもならぬと諦めていたところ、あるとき村役場の掲示板に、「海軍少年航空兵募集」のポスターが貼ってあるのを見た。

 

 

兄に相談すると「よし」。最初の試験は不合格、翌年は試験日程を誤解したのか受験もできず、三年目はようやく学科に受かったものの、当時の彼は身長・体重が不足していた。検察官に泣いて頼んだら合格。本家の伯父が大反対したが、母が「よし」。

 

昭和八年(1933年)5月1日、佐世保海兵団に入った。この三年前に海軍の予科練、この年に陸軍の少年飛行兵の制度が発足した。中退でも努力と粘り腰で、時代の波に乗ったのだ。未成年につき、海軍四等水兵という「海軍軍人の最後尾」に列せられた。

 

 

 

 

精神注入棒を食らいつつ、陸戦、砲術、探偵と山盛りの新兵教育を終え、10月1日、戦艦「霧島」の乗り組みを命ぜらる。サボ島沖に今も眠る歴戦の軍艦。このころは、一般の水兵にも霞ヶ浦の操縦訓練生に応募ができた。それに賭けて勉強する。

 

一年間の「霧島」での訓練成績は二番と優等で、しかし優等すぎて大艦巨砲主義時代の出世街道であったろう「砲術学校」行きを命じられ、半年後に卒業したら今後は戦艦「榛名」の主砲分隊に配属された。どうやらソロモンの海空に呼ばれている。

 

 

昭和十一年(1935年)夏、ようやく海軍操縦者の試験を受けることになった。三次試験まである。一次の学科に合格、二次は佐世保で肺活量が足りず苦労したが、何度もやりなおして、やっと合格。最後の三次試験は、霞ヶ浦海軍航空隊で行われる。

 

坂井は土浦の駅前に立った。驚くほどの数の複葉機が上空を飛び交っている。この時期、在米大使館付で勤務中の山本五十六は、かつて霞ヶ浦航空隊の副長で、土浦に住んでいた。迎えの車が出る身分だが、自分で通勤してくるので部下が困った。

 

 

16歳の坂井少年は、苦手の肺活量で八回目の挑戦も失敗。しかし軍医官に「貴様のは、もう少しで規定に達する」と発破をかけられて、とうとう「よし」と出た。胸囲も不足し、こちらは再挑戦も何もないが、同じ軍医官が何度も測りなおして合格。

 

見込まれたものか。これでようやく「操縦訓練者予定者」になった。霞ヶ浦では水上班と陸上班があり、著者は陸上班員になった。水上班はそのまま湖で訓練するが、陸上班は西茨城郡の友部分遣隊に移動した。周囲は麦畑。最初に基礎の座学を受ける。

 

 

そのあとで受検する最後の「空中適性検査」に不合格となると、原隊に戻らなくてはならない。厳しく長い訓練や検査を受け、彼が前線に出たときには二十歳になっていた。この検査は、乗機の前席に指導教官、後部に訓練生予定者が乗って空を飛ぶ。

 

さっそく出発前から厳しい指導を受け、離陸の際は「夢中で座席の縁にしがみついていた」ところ、教官がどこかをコンコンと叩き、「いま離陸したぞ」という。感激している余裕もない。教官は実地で指導しながら、ときどき質問や命令をしてくる。

 

 

そのうち水平飛行に入ったとき、「いまの姿勢を変えないように、一人でやってみろ」といきなり言われた。最初は惰性でまっすぐ飛んでいたようだが、まもなく傾いたり揺れたりしてきて、必死に操縦していたら、「よし、離せ」と解放された。

 

教官は「貴様、少しやったことがあるんじゃないか」と言ってくれて、ほっとしたのも束の間、飛行場はどこだと怒鳴られ、いくら見渡しても見つからない。実際は飛行機のすぐ左下にあり、教官は機首を下げて急降下を始めた。

 

 

試験が終わり、予定者は、名を呼ばれた組と、坂井を含む呼ばれなかった組に分かれた。皆の意に反し、呼ばれた方が不合格。全員、「寂として声なし」であった。これでようやく訓練生。片桐司令の訓示を受けた。「一人前となるには、まだまだ」。

 

今回は少し詳しめに書いたが、この調子で進むと何十回もかかりそうなので、次回以降はラバウルに向かうまでの要所のみ記す。タイトルはSF小説の怪作、マイク・レズニック「キリンヤガ」の一遍、”For I Have Touched the Sky"より拝借。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

うちの朝顔  (2022年8月29日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.