本ブログは南東方面についての記事を、いずれも昭和十七年(1943年)8月以降の、陸軍はガダルカナルから、海軍は第一次ソロモン開戦から書き始めているため、今その前史をラバウル中心に勉強中。同地の占領の話題は今回が最後。

 

前回の続き。同年1月22日、ラバウルに上陸する直前、すでに海軍の第一段作戦の第二期の兵力部署で定められていたとおり、連合艦隊は南海支隊のラバウル攻略に対するに協力を開始した。今回も陸軍の戦史叢書(14)を参照する。

 

 

ラバウル近海では敵機動部隊と遭遇するかもしれず、豪州からの航空部隊の攻撃はそれ以上の確率で起こりそうでもあるため、石油の足りない戦争だが、ここは気張って第一航空艦隊を派遣した。柱島発でトラックに入港したのが1月14日。

 

18日にトラックを出撃し、上陸二日前の20日、第一次ラバウル攻撃を行った。「赤城」、「加賀」、「瑞鶴」、「翔鶴」から、合計109機が発進。敵飛行場、砲台、給油船等を破壊。空中戦は軽微で、敵機の撃墜・大破は5,6機だった。

 

 

翌21日にはカビエンにも52機が、22日当日には46機が第二次のラバウル空襲を行ったが、「敵の反撃は極めて微弱だった」。この「勝ち目のない戦いは避ける」という連合軍の対応は、上陸後の陸戦でも示されている。

 

また、21日に艦載機がニューギニアにも飛び、ラエ、サラモア、マダン等の空襲を行ったものの、地上基地に多数の航空機があるにも拘らず、離陸して来なかった。対空砲火すらなかったというから、このころの太平洋は一方的だったのだ。

 

 

南海支隊の先陣を切ったのは、第五十五師団の歩兵第百四十四連隊(高地)。連隊長は楠瀬正雄大佐。月は無いが星空が美しいラバウルの上空に、吊光弾が二発上がった。午後11時40分、上陸用舟艇が一斉に発進。

 

花吹山の噴火光を目指す。北崎の海岸は砂浜のはずが土の壁で、しかし幸い敵影無し。上陸第一波はまず豪州の総督邸を目指し、これを占拠。三方からの上陸のうち、第三大隊(桑田部隊)の主力は、西花山南岸に上陸したが、丘陵地帯の密林に阻まれて遅延し、戦闘開始前に夜が明けてしまう。

 

 

西吹山北岸に上陸した第九中隊は、豪州軍の「真面目な抵抗に遭遇した」。ここに鉄条網を張り巡らせ、一部兵力を集中していたらしい。豪州の戦史に、そのときの模様が記録されているので孫引きする。

 

豪州兵達は日本軍の上陸用舟艇やその乗員が、ラバウル港及び町で炎上中の軍需品の明かりで、影絵となって浮かぶのを見た。上陸する日本兵たちは笑ったり、話したりしていた。守備隊は日本兵の大部が上陸するまで辛抱して待った。上陸し終わるや全火器を挙げて射撃を開始した。

 

 

セセリチョウ

 

 

上陸地点の三つ目、南崎に上陸した豪軍を駆逐して同地を占領。ここから後退した豪軍部隊と、ラバウル市街方面から撤退してきた敵部隊は、道に迷っていた桑田部隊の主力と次々に接近遭遇し、三回戦って、ようやく日本軍は西飛行場を占領した。

 

東飛行場と中崎砲台の攻略は、楠瀬部隊の第一大隊の担当。夜10時20分に泊地着。夜が明ける翌朝4時までに、輸送船は敵砲撃を避けるため、遠海に避難する計画。砲台に向かう尖兵隊の第二中隊長は、舟艇の中で「占領できねば腹を切れ」と言われた。

 

 

第二中隊は、事前情報で中崎砲台の敵砲は約十門と聞いている。しかし砲台は無人で、16センチの砲二門を発見し破壊。ところが残りの八門が見当たらず探し回る。午前4時が来た。海軍の攻略部隊は、全軍に「予定の特別漂泊点へ移動」の命が下った。

 

これには船上の南海支隊司令部も焦っただろう。しかし4時25分、白色三弾の信号灯が上がり、砲台占領の報が伝わった。捕虜からでも聞いたのか、砲はもともと二門しかなかったらしい。

 

 

翌23日は天気快晴。堀井南海支隊長は戦局有利と判断し、自ら上陸して掃討戦の開始および東西飛行場の占領の確認に移った。豪軍もよく撤退戦を戦ったものの、やがて司令官は「もはや戦闘を続けても何の役にも立たない」と判断して投了。

 

豪軍は各守備位置からラバウルとは反対側に移動し、実施的な戦闘は終了した。なお、日本軍を迎えるに際し、豪軍司令部は兵の動揺を避けるためか、これは「演習である」と伝えた。真珠湾の逆、プーチンと同じ。

 

 

大本営は1月24日午後5時15分、自慢話をふんだんに盛り込んだ、長いのなんのという大本営発表を行い、ニューギニヤ島近くのラバウルと「カビエング」の敵前上陸成功を報じている。「米豪を遮断し得る絶対優勢の地位を確保するに至った」のだ。

 

そのころまだ南海支隊は追撃に忙しい。そして連合軍は占領後の23日以降、ほどんど一日おきに、2~5機が夜間のラバウルに空襲をしかけてきた。また、特に西飛行場の整備状況が悪く、大型機に使用する予定の海軍は舗装工事に取り掛かった。

 

 

このあと両飛行場に次々と日本軍の航空機が進出してきて、初期のラバウル航空隊を形成することになるが、今回の陸軍の戦史叢書には詳しい情報がないので別途調べなくては。最後の話題はマラリア。

 

早くも追撃作戦の途中から、「爆発的」にマラリア患者が発生した。日本軍も知識としては、マラリア対策の重要性は認識していたものの、現場の認識不足や油断もあってか、間もなく警戒配置も満足にできないほどの患者が出た。

 

 

先日の「しょうけい館」の展示によると、マラリアは初期の治療が何より重要であるそうだ。しかし、代表的な治療薬の一つ、キニーネは原料のキナ樹皮を輸入に頼っており、開戦で品切れになってしまい、慌てて治療薬の国内生産に取り掛かった由。

 

しかも、媒介するハマダラ蚊は清流を好むため、ラバウル市内では、それほどの被害がなかったせいか、この島のマラリアが最悪最強の熱帯熱マラリアであることに気付くのに遅れた。「脳を冒され発狂的症状を示す者も現れた」。問題はこの教訓が、このあともずっと南東方面で活かされなかったことだろう。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

水元公園には白とピンクの蓮が咲く  (2022年8月23日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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