ウマオイの幼虫 まだ羽がない 尻の突起が目印

 

 

2001年の今日、私は珍しく残業が早めに終わり、珍しく飲み会もなくて、早々に自宅に戻って何となくテレビをつけた。かつて、会社のNY支店に挨拶するため、上ったことがある世界貿易センターのツインタワーの片方が燃えている。

 

もちろん、映画かドラマだと思った。そのうち様子がおかしいと気づいたのは、オーソン・ウェルズの宇宙戦争のようなことにならないよう、パニックを起こしそうな映像などでは必ず、例えば何とか洋画劇場などと画面に示す。その虚構の標示がない。

 

 

しかし、あれは常識を超えておって、なお半信半疑でフルスクリーンのまま観ていたら、二機目が突っ込むのを目撃してしまった。大統領は、「これは戦争だ」と叫んだが、受けて立つ相手もないまま、今に至るも同時多発テロと呼ばれている。

 

振り上げた拳の下ろしどころは、首謀者をかくまったという、奥州藤原氏のような理由でアフガニスタンが選ばれた。今に至るも国家の体をなしていない。戦争の汚さの一つは、勝者が敗者の面倒をみるどころか、占領や収奪を続け、恬として恥じない。

 

 

気を静めてラバウルに戻る。今回は主に陸軍の南海支隊の登場について、次回は陸海軍協働のラバウル攻略について。南海支隊(長・堀井富太郎少将)に、作戦準備の大命(大陸指第九百九十二号)が下ったのは、昭和十六年(1941年)11月6日。

 

対米英戦の開戦前なのだが、早かった理由は、この命令の対象となる作戦がビスマルク攻略(R作戦)だけではなく、その前のグァム島攻略(G作戦)も併せ持っていたからだ。実際、南海支隊は開戦早々の12月10日に、G作戦を開始、成功している。

 

 

この10日には、海軍もタラワとマキンを占領している。しかし、肝心のウェーキに対する作戦は失敗し、再起を図ることになったため、南海支隊はそれが終わるまで、グァム島で訓練を行うことになった。勢いでトラックまで進出、とはならなかった。

 

その理由は、上記の大命および同時発令の陸海軍中央協定の内容を転載している、陸軍の戦史叢書(14)の書き振りから読み取り得る。一言でいえば南太平洋への陸兵派遣について、陸軍は慎重あるいは消極的な姿勢のままだった。

 

 

具体的に期すと、上記中央協定の文中には(以下、カタカナはひらがなに換える)、作戦目的として、「南洋群島方面に対する敵の脅威を封殺する」とあり、戦史叢書は「本質的には防御的な作戦目標を設定している」と評している。撃滅ではない。

 

もう一つ、グァムからラバウルへの転進の条件として、「海軍護衛兵力の状況、これを許すに至らば」となっており、この条件設定により、強行軍を「規正している」。上記のウェーキの再攻撃や、今次の海軍の大編成などは、これに応じた海軍の意思表示なのだろう。

 

 

デンデンムシムシ

 

 

最後に中央協定には、「グァムでもラバウルでも、陸軍部隊は占領後、海軍部隊と交代し、トラックとパラオにそれぞれ集結すること」という条項がある。一般に、占領後は陸軍が管理するものだと思うが、反対に帰ってこいという。

 

以上は、言われた方の南海支隊にしてみれば、やや気勢の上がらない命令ではなかろうか。このさきは当方の私見にすぎないが、半年後、南海支隊は「レ号作戦」に巻き込まれる。辻正信の独断による、モレスビーの陸路攻略作戦だった。

 

 

このとき、一証言にすぎないが、この作戦計画を聞いた南海支隊は、やる気満々に見えたという見分記録が、確か戦史叢書に載っていた。特に職業軍人は、勝って何ぼの人事評価。鬱屈が晴れるような気分だったとしても、不思議ではない。

 

ともあれ、この時点で最前線に行くのが決まったのだけは間違いなく、翌年1月14日、海軍輸送船団に乗り、グァム島を出発。1月17日、海上に帆船を発見した。「津軽」艦長稲垣大佐の記録が残っている。現代仮名遣いにて引用する。

 

 

この帆船はマッカーサーが小型船で、オーストラリアにフィリピンより遁走しつつある算、大なりと推定し、大いに緊張して追求したるところ、全速力で遁走するので益々疑い、増速して捕らえたるところ、日本の鰹船にて、帆船は「米艦に追われたると思い遁走しました」と云う。総員万歳を連呼してマグロを三、四疋、贈呈してくれたり。

 

 

これで終わりよければ全てよし、とは南海支隊には言いづらいが、ともあれ今は元気で、1月20日に赤道を通過した際は、「陸軍部隊としては神武以来初めてだ」と意気軒高の感があった。翌日、敵航空機の接触を受けた。見つかった模様。

 

幸いラバウル島に接近したころ驟雨が降り出し、敵による捜索を困難にした。一方、日本側は陸軍の将校が海軍の偵察機に乗り、目視でラバウル島の偵察をしている。主目的は上陸地点を決定する判断の材料を得るためだった。飛行場や砲台のようなものが見えた。

 

 

地形や敵陣から、南海支隊は三方向から夜間上陸し、一気にラバウルの東と西の飛行場を占領する計画を立てた。夜間に飛行場を押さえておかないと、夜が明けたら味方が敵機の襲撃を受けてしまう。

 

海軍の海軍の戦史叢書によると、夜間で悪天候だったにも拘わらず、火山の噴火が道しるべになったとのことだ。1月20日、R方面攻略支隊もカビエン目指してトラックを出撃。そして連合艦隊の機動部隊から発進した航空部隊が、ラバウルの上空に到達。

 

 

(つづく)

 

 

 

子供のころからカマキリが好き  (2022年8月23日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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