アカテガニ 葛西臨海公園にて

 

前回の海軍に続き、今回は陸軍の戦史叢書、「第014巻 南太平洋陸軍作戦<1>ポートモレスビー・ガ島初期作戦」を参照する。実に久しぶり。第一編・第一章の「ラバウルおよびその周辺要地の攻略作戦」。南太平洋の陸軍の緒戦だ。冒頭部分をかつて一部引用したが、今回少し長めに転載する。

 

 

昭和十七年一月二十二日午後十一時四十分、東京から五、〇〇〇粁離れた南海の要衝ラバウルに向かって、日本軍の上陸舟艇が一斉に発進した。月齢六、薄曇りの海上に豪軍の打ち上げる照明弾が舟艇のたてる白波をくっきりと浮かびあがらせた。

 

この時、死闘三年、二二万の陸海将兵の生命をつぎ込んだ南太平洋方面陸上作戦の幕が切って落とされたのである。陸軍部隊は第五十五師団(師管区 四国)の歩兵第四十四連隊を基幹とする南海支隊、海軍部隊は第四艦隊の主力であった。

 

 

南海支隊にラバウル攻略の大命(大陸命第五百八十四号)が大本営陸軍部から出されたのは、昭和十七年(1942年)1月4日。この日付には意味があり、1月2日にマニラを占領、3日に入城し、フィリピン方面が一段落した。

 

大命の冒頭にも、「帝国陸海軍の作戦は順調」とある。4日に大命下達、陸軍の作戦開始が1月22日になっているのは、南海支隊を占領が終わったグァムからトラックまで輸送するのに日数がかかった。

 

 

それにしても戦史叢書によると、南海支隊をグァム島攻略に用いるという計画は、大正十二年(1923年)の年度計画で定められたというから古い。近くのサイパンやテニアンやロタが、第一次世界大戦後に日本の植民地になったのは大正九年(1920年)。

 

その三年後には、アメリカから分捕る計画を立てていたらしい。1923年といえば、関東大震災の年である。震災後、米軍は被災者の救助に来ている。そのとき、しっかり東京湾の測量もやっていったと聞いたことがあるので、お互いさまの時代なのだ。

 

 

クロベンケイガニ  ハサミの点々模様と毛脛が特徴

 

 

 

それにしても、陸軍は当初、この時点で太平洋に派兵することに難色を示しており、参謀本部次長塚田攻中将は、「絶海の孤島に少数の陸兵を派遣することは、海の中に塩をまくようなものである」と大反対であった由。

 

できれば本当に塩をまいて終わりにすればよかったのに、陸海の妥協でこうなった。マレー半島の作戦が遅れている陸軍は、同方面で海軍の支援を受けることになり、見返りとして、南海支隊はグァム攻略の次に蘭印派遣の予定だったが、その間にラバウルを挟んだ。

 

 

ちなみに、R方面の「R」はラバウルのことだと思ってきたのだが(その頭文字を使ったのは間違いなかろうが)、戦史叢書によるとR方面は、ビスマルク諸島方面を意味する。すなわち、カビエンも入っている。さて、上記青字転載の少し後の記述。

 

攻略は全般的戦略情勢の優越と、豪軍側の日本軍主上陸地点に対する判断の食い違い等の影響で、極めて順調に終了した。

 

 

優勢の一例を挙げれば、海軍は空母「加賀」などを出陣させている。ところで、豪軍側の判断の食い違いとは何だろうか。これも具体的な説明がある。日本側では、海軍の歴史的な発想である「決戦海面」の位置に変化があった。

 

明治以来の伝統は本土近海。その後、「兵器の進歩や戦略態勢の変化から逐次前進し」、昭和十一年にはマリアナ諸島西方海域に進出。同十五年ごろには「マリアナ諸島の東方、マーシャルの北方海域」になった。

 

 

そのあたりに占領したばかりのウェーク島がある。どうりで出直してでも攻略したわけだ。大鳥島と改名されたウェークは、ラバウルやトラック同様、米軍が通過したまま置き去りにされ、将兵は飢餓に苦しんだという手記が手元にある。

 

では、対する豪軍は、どういう想定をしていたのか。一言でいうと、主としてもっと南東のほうのソロモン諸島あたりに来ると思っていたらしい。ラバウルも照明弾の用意くらいはしていたが、手薄だったのか。
 

 

 

 

前回の地図を再掲する。戦史叢書によると、豪軍は「ニューヘブライズ島のビラ、フロリダ島のツラギ、ブーゲンビル島のブカ水道、ニューアイルランド中部のナマタナイおよびマヌス島のロレンガウを考えていた」。

 

豪州が考えていた各地は、ラバウルやカビエンに比べて、豪州東海岸に近い。それに、間にニューギニア島が挟まっていない。日本軍の勢いをみて、自国本土に来るのではと警戒したのか(ダーウィンへの空襲は翌2月から)。

 

 

この戦史叢書の文中に、当時陸軍は豪軍の「沿岸監視隊」の存在に殆ど気付いていなかったのではないかとの指摘がある。ツラギを含む上記各地域には、当然コースト・ウォッチャーズがばらまかれていたはずだ。

 

そこに海軍はガダルカナルの飛行場建設を始め、陸軍は一木支隊を勢いよく送り込んだわけだ。なお、南海支隊も翌2月に正式に定まるモレスビー攻略作戦のため、当初予定の蘭印には戻らず、占領後もラバウルに留め置かれた。死闘3年、22万の命か。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

東京ディズニーランド沖 帆船?  (2022年8月24日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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