東京都足立区 舎人公園

 

 

ニューギニアの戦いは筆が進まない。先が見えません。区切りもありません。ここまで来て、あとは知らんとは申せません。とりあえず、既述の通り昭和十九年(1944年)3月の組織改編で第十八軍が、第八方面軍から離れるところまで進めます。

 

そのあとブログは同時期のニューブリテン島に移りますが、実際のニューギニアの戦いは、第十八軍が西部ニューギニアのホーランジア方面に転進を開始し、上陸してきた連合軍との間で、アイタぺの戦いが起きる。後の回で再開します。

 

 

今回は、中野集団のマダンへの移動に際し、海岸沿いでその収容任務にあたる中井支隊と分離し、その後釜としてフェニステル山系の南麓、ボガジン渓谷(マダンーラエ道の建設予定地)で豪軍を押し留めている松本支隊の話題です。

 

まず、中井支隊の責務である「収容」という言葉の具体的な内容は、戦史叢書(58)によると、中野集団の露営地への誘導、渡河設備、対空暴露地などの標示、「通過兵一人に対しココ椰子一つを交付する」。フォン半島北岸の広範囲に展開します。

 

 

一方、支隊長中井増太郎少将(第二十歩兵師団長)が去ったのち、後任の支隊長としてボガジン渓谷の守備に当たった松本支隊長とは、歩兵第七十八連隊(龍山編成)の連隊長松本松次郎大佐。新支隊は、歩兵約一個半大隊を基幹とする部隊です。

 

配備の重点は、歓喜嶺。攻め手は豪州陸軍の第7師団で、米ニューギニア軍より、日本軍をボガジン渓谷、ラム河方面に抑留することという命令を受けている。その日本軍は二手に分かれ、一方は渓谷を離れ海岸沿いに出て、他方は残留し豪軍と対峙した。

 

 

結果から書くと、豪軍の攻撃は第八方面軍が想定した以上に強力で、松本支隊は徐々に後退しつつこれを受け止め、方面軍は第四十一師団も加勢させて、中野集団の転進における後顧の憂いを振り払った。二月末に中野集団のマダン集結が終了する。

 

ところが、もっとも激戦であった歓喜嶺の屏風山の戦いは、日本側の資料が殆ど無いようで、戦史叢書は二本の電報を引用しているのみ。あとは豪軍の資料で補足しているが、あまりうまく接続できなくて苦労しています。

 

 

豪軍の攻撃は、1月20日に本格化し、歓喜嶺付近の航空作戦で始まった。上空からの掃討、急降下爆撃、1000ポンド爆弾の投下。続いて主力歩兵大隊が、歓喜嶺の西側から攻めたらしいのだが、日本側にその記録が見つからない。

 

しかし豪州軍によると、日本軍の至近距離からの七十五粍砲の射撃を受け、大隊長以下、多数の負傷者を出した。この山砲陣地には砲兵が16名いたらしく(戦死者を数えたのだろう)、最後の一人まで砲撃を止めず、占領後、砲一門、砲弾50発を奪った。

 

 

 

舎人公園にて

 

 

翌1月21日に、豪軍は日本軍の歩兵主力が在る屏風山に迫った。守備部隊は歩七十八の第六中隊。中隊長片山眞一中尉以下、約七十五名。大隊砲一、機関砲二、速射砲二を装備している。上記の電報とは、21日から22日からの戦闘の事後報告。

 

このうち、一本目の電報を現代仮名遣いにして引用します。なお、二本目は、その後の調査により20名が生存していたことがわかったというもの。当日の経緯は以下のとおりです。第十八軍が、おそらく第八方面軍に出したものだ。

 

 

一月二十六日付 猛参電五四八号

一  二十一日、屏風山を占領せる中隊は、該地北端に進出せる約一大隊の敵と十数時間にわたり奮戦力闘の後、弾薬全く尽くるや、白兵力をもって陣地を死守し、中隊長以下、玉砕せり。

 

二  重傷者は白刃もしくは戦友の手により処置す。また、兵器その他は完全に処置し、一兵一物といえども敵手に入りたるものなし(以上中隊長最後の突入に際し、大隊長の派遣せし伝令の確認せしものなり)。

 

 

これが片山中隊長以下、第六中隊の最後を伝える唯一の記録なのだろう。このあと豪軍は、後方の歓喜嶺北側にある第二大隊主力に迫り、その陣地を両翼から攻める戦闘を繰り返した。一月末には日本軍の戦力が約三分の一になってしまった。

 

あともう一回、この戦域の資料を「丸」別冊にて参照します。今回との重なりがおいですが、第二大隊の現場にいた軍人の回想録だから生々しく具体的です。そういう資料ばかりなので、筆が進まない。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

上野精養軒の屋上から見た落日  (2022年8月10日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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