前回の続き。第十八軍の安達軍司令官が、戦闘指揮所をキアリに進出させた後、マダンにとどまっていた鈴木軍医は、「マダン猛翼林のジャングルの中」で、昭和十九年(1944年)の元旦を祝い、吉原参謀長の音頭で新年の乾杯をしていた。

 

その最中に、彼らは「はるか西南方に激しい砲爆撃音を聞いた」。これが連合軍(アメリカ陸軍)による、東部ニューギニアのサイドルにあるグンビ岬への上陸前触れの砲爆撃だった。上記のマダンとキアリの、ど真ん中に乗り込んできたのだ。

 

 

司令部も困ったことになったが、ラエから撤退してきた第五十一師団や、フィンシュハーフェンから後退してきた第二十師団は、マダンへと向かう退路を米軍に断たれ、フィンシュの豪軍と併せて、「腹背に敵を受ける苦境にたちいった」。

 

吉原参謀長は軍全体の統制のため、安達軍司令官にマダンへ帰還してもらわねばならないとの判断を下す。問題はその輸送方法だが、ラバウルの第八方面軍に、軍司令官らを載せるための潜水艦を、シオ(キアリの近く)に派遣するよう要請した。

 

 

また、マダン守備の陸上部隊の強化・配置について、詳細は後に戦史叢書で確認するが、ウェワク方面にいる第四十一師団をマダンに南下させ、フェニステル山系の裏側にいる中井支隊から、海岸方面に兵力を抽出させることにした。

 

資料を換えて、「丸」別冊の「舟艇機動『船舶工兵』一代記」に再登場願う。著者の柴田政利氏は船舶工兵第五連隊の所属。このころ、船工五はマダン~フィンシュハーフェン~ラエの舟艇機動を担当している。なお、ウェワク~マダンは船工九の担当。

 

 

グンビ岬への敵上陸により、船舶工兵に降ってわいた「第一の任務は、軍司令部の潜水艦によるマダン帰還を成功させることである」。この任務の初日は、敵の妨害で潜水艦は浮上することができなかった。本件は後の回でも触れる。目前の海の制海権がない。

 

しかし、二日目には浮上でき、安達司令官ほか司令部や患者の一部を、無事、潜水艦に移乗させることができた。そして第二の任務は、別の潜水艦に大部の患者を載せる仕事が残っている。なかなか次の潜水艦は来なかった。

 

 

患者の中には、待ちきれず陸路で移動を始めるものまで出た。それでもお待ちかねの潜水艦がようやく到着し、船工五は患者の移送にいそしむ。そして、自分たち船舶工兵は取り残された。彼らはこのあと、糧秣もないまま陸路を移動する。

 

2月下旬になってようやくマダンに着いた。「残置者を避けることができず、いまでも胸の痛む思いである」。身分社会は残酷だ。3月以降、ハンサからの二十師の移動、ウェワクへの五十一師の集結のための舟艇機動に多忙を極めた。酷烈である。

 

 

 

鈴木軍医の書籍に戻る。軍司令官を載せた潜水艦がマダンに戻る予定の日。彼自身の上官である広瀬軍医部長も載っている。居ても立ってもいられず猛頭山に登り、眼下の紺碧の海を見つめていた。

 

一時間ほど待った。風に乗って、レモンの甘い香りが漂ってくる。そこへ無粋にも敵戦闘機ロッキード2機が飛来し、彼の頭上を降下して、アレキシス飛行場に対する銃撃を始めた。うち一機が海上に飛んだとき、潜水艦の鼻先が「ぽっかりと」浮上した。

 

 

早く潜れと唸ったものの、知らせようがない。幸い、敵機は潜水艦に気付かなかったのか、繰り返し飛行場への銃撃を続けている。一方のわが潜水艦は、後に聞くところ敵機の襲来に気付き、いったん潜航したらしい。

 

軍司令官以下は無事、マダンに帰還した。軍医部では、マダンに「第百二十三兵站病院第二半部」を開設し(小泉重政軍医大尉ほか百十名がパラオから進出)、ラエ、サラモア、フィンシュから後送されてくる患者の収容と治療の拠点とした。

 

 

野戦病院のあるマダンのゴム林は、「異臭の漂う患者で充満し始めた」。この患者らは船舶工兵が、夜中に大発で揚陸する。病院までの泥道を夜中に歩くのは無理なので、夜が明けるまで患者は砂浜に置き去りにされる。

 

傷口を洗い、繃帯をまく。こういう手当さえ何か月ぶりかで受ける患者たちに、「軍医どの、マダンは天国ですね」と言われた。血清が尽き、破傷風で病死するものが多かったと書いている。そして、歩ける者はキアリから陸路を、マダンへと行軍中。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

ニイニイゼミ  (2022年7月7日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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